34 出立の朝

 窓越しに外を見ると、ちょうど夜が朝を引き連れてくるところだった。空は濃紺から紫に色を変え、金色の地平線がゆっくりと引かれていく。幼い頃、夜中にふと目が覚めて独り窓の外を見たときのことを思い出す。母は「マハブ神さまが空に絵の具を塗っているのよ」と言っていた。あのときは日の出を見れたことが嬉しくて、少し大人になったような気がしてワクワクしたものだ。今は涙が出そうになった。この窓に区切られた朝焼けを見ることは、マハブ神が日々描く絵画を眺めることは、もう一生ないだろう。僕は止めていた手を動かし、荷造りを進めた。


 ランプに油。寝布に巻き布。少しの着替え。皿とさじ。干し肉と豆をすりつぶして乾かした粉。非常用の飲み水。火打ち石。数枚の紙と筆箱。硬貨入れ。それらを荷袋に詰めていく。四年間同じことを繰り返した僕の両手は、無意識にそれらを収めるべきところに収めていく。キャラバンに参加し始めた頃は、体力に似合わずいろんなものを詰め込んでいたものだ。必要最小限のものを必要なだけ。そして今回は、大切なものも。部屋の隅の箱を開き、中にしまっていたナイフと懐中時計を取り出す。父と母の形見だ。父が使っていたナイフの木製の柄は油でつややかに光っており、父の手の形に削れていた。父が死んだ直後は大きく感じたのに、今はひどく手に馴染む。同じく母の懐中時計もかなり使い込まれていた。キャラバンに出る度に溝に入り込む砂を丁寧に取り除いていた母の背中を思い出す。すでに針は止まってしまっている。飛び出たネジをきりりりと巻き上げれば、コ、コ、コ、コ、と時を刻み始めた。時間は合っていないだろうけれど、ちゃんと動いたことにほっとする。僕はそれも荷袋に大切にしまいこんだ。


 荷袋を背負い、家の中を見回した。昨日掃除をした家の中は、誰かの帰りを待ちわびているかのようにひっそりと息を潜めていた。台所の戸棚には、ブルジャーワシおじさんとアマモおばさんに書いた手紙を隠しておいた。僕がいなくなったと知り、きっとこの家を預かってくれるだろう。手紙を見つけてくれた二人の心が、どうか軽くなりますように。手紙を書くなんていつぶりだったろうか。一文字一文字、相手の顔を思い浮かべて書く字は、少し震えていたかもしれない。


 もう僕はこの家に戻ることはない。隙間から吹きすさんでくる軽やかな風の香りも、砂が混じった床の感触も、母が立っていた台所も、父が背の高さを刻んでくれた壁の傷も、すべて体に焼き付けようとした。熱くなった目頭にぐっと力を入れて、ランプの火を消した。暗い部屋から出て行くと、風が僕の背中を押すように吹く。舞う砂塵を吸わないよう口元を隠し、僕は家を後にした。振り向かなかった。




「おい、そっちの荷を積め。急げよ」

「早く荷の確認を済ませろ。陽が昇りきって地獄を見るぞ」


 西門の広場の前には、一面キャラバン隊の荷で埋め尽くされていた。僕は荷の間を縫うようにして、一匹のザマに駆け寄る。ナセルの家で世話をしていたうちの一匹で、年は取って毛に張りはないものの、性格が穏やかなザマだ。首を一撫でしてやると、「ヴォ」と一言鳴いた。荷袋をくらの落ち着く場所に据えているところで、後ろに人の気配を感じた。


「君がサルファか?」


 振り向くと、僕と背丈は変わらないのに、筋肉が二倍はあるんじゃないかと思う筋骨隆々とした初老の男性が立っていた。浅黒いよく焼けた顔の中央には、整えられた立派な髭があった。頭に巻かれた布には、キャラバン隊の隊長であることを示す留め金がつけられている。僕が頭を下げると、肩を強めに叩かれた。思わずよろめいた。


「ナセル君から話は聞いているよ。私たちのことは気にしなくていい」


 「すみません」と謝ると、ガハハ、と豪快に笑った。


「本当に気にしなくていい。私は商人だ。商人は契約を必ず守る。何せすでに前払いもしてもらっているんだ。


 終始にこやかなその表情は、長年の商売で作り込まれたものだとわかった。しかし、嫌味がなく気持ちいい人だ。御礼を言うと、その人は荷積みをしている隊員の方へ戻っていった。この砂漠では、荷車だと砂に埋まってしまって動かなくなるから、古くから荷橇にぞりが使われている。僕以外の人々は無駄のない動きをして、みるみるうちに荷は整然と積み上げられていく。ザマも荷橇にぞりを引くためのくつわと鞍がつけられたものが十頭ほど、隊員の移動用に鞍が乗っているものが数頭繋がれていて、それぞれ桶から水を飲んでいた。この光景も、四年間見続けてきたものだ。キャラバンの出立の朝。陽が砂を照りつける前に荷をザマに積み、号令とともに歩みを始める。死ぬかもしれないな、なんて人ごとのように思う朝は、もう来ないんだろう。


「さあ、出発だ。マハブ神に旅のご加護を祈ろう」


 地面に置かれていた荷がひとつも残されることなく荷橇にぞりに収まったところで、隊長が声を張り上げた。それまでざわめいていた男たちの声が静まり、皆朝焼けの方向に体を向ける。働き者の拳で、額を二回叩いてそれぞれ祈っている。自分の無事を。家族の無事を。愛する者の無事を。僕も同じように、この砂の街を見守る神に祈りを捧げた。


 僕は自分の荷がしっかり固定されているかどうかを確認してから、ザマにまたがった。今までよりも視界が高い。徒歩のときとは違う風が頬を撫でていく。開いた門の向こうにはどこまででも砂が広がっていて、朝陽が砂に反射して光り輝いている。ああ、こんな世界があったんだ。単純にそう思った。


 キャラバン隊がゆっくりと歩みを始める。僕は隊列の最後に付き従うように、ザマの手綱たづなを引っ張った。門衛の声が前の方から聞こえる。


「バシューヤ=カシュロさんのキャラバン隊ですね。全員で五十三名とうかがっています。どうぞ」


 門から出て行く隊員を、門衛が一人ずつ数えていく。心臓が胸から零れてしまったのかと思うくらい、どくどくという音が聞こえる。門衛はザマに乗った僕を手で指し示したところで、「五十三、っと」と彼は手元の書類に書き込んでいた。無事に門を出ることができると安心し、止めていた息を大きく吐いた。ゆっくりと僕が乗る老齢のザマが門をくぐる。


 背後から怒号が飛んできた。


「おい! 待て! そこの餓鬼!」

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