33 決行は三日後

「協力してくれるナセルだけに任せるのは嫌だ。僕も自分でできることをして、アリージュと一緒に行きたいから」


 アリージュはそっと頷く。が、少し表情にかげりがあった。決意はしたものの、まだ不安があるのだろう。今度は僕が彼女の左手を優しく握りしめた。細い指が僕の手の甲を軽く押し返す。指先は震えていた。


「ありがとう、サルファ。そうね……何か良い方法はないかしら? 普通に門から出て行っても門衛さんに見られているでしょうし、上手くバレずに街を出られたとしても逃げのびていると知られたら、座長はどこまでも追いかけてくるだろうし」


 座長にふるわれた暴力でも思い出しているのだろうか、アリージュの指から温かさが失われていく。もう独りじゃない、僕がいる、とアリージュに思ってもらいたくて、僕は手に力を込める。自分の手のひらの熱がすべてアリージュに伝われば良いのに、と思った。アリージュは頭を僕の肩にもたれさせた。濡れたような黒髪からも甘い香りがした。


 座長はきっと僕らが二人で砂漠を逃げていると知ったら、地の果てまで追いかけてくる。アリージュも、ジュナさんもそう言っていたから、本当にそういう人なのだろう。あの人一倍たるんだ腹にため込んだ金と強欲さをもって、僕たちの居場所を突き止めようとするかもしれない。砂嵐の夜、僕のことを羽虫のようにしか見ていない冷たい視線が思い出された。僕らは一生逃げ続けるしかないのか?


 薄ぼんやりとした淡い光が広がる壁を見て考えていた僕は、自分の視界に違和感を覚えた。あれ? この間この部屋を訪れたときと、何かが違う。

 気になった僕が独り言のようにそう呟くと、アリージュは首をもたげて壁を指差した。


「あの壁に掛けている飾り布じゃない? 昨日ちょうど掛けひもが切れてしまって、床に落ちちゃったの。タミユさんが掛けなおしてくれたんだけど、よく見たらいつもと裏表が逆で、模様が違っちゃってる」


 その話を聞いた瞬間、僕の頭の中で絡んでいた縄がするん、とほどけた感覚があった。「逆にすると違うように見える」という言葉が、僕の脳の中をせわしなく駆け巡った。何か、枯れた井戸の奥底にひとすくいの水が湧き出たような。逆。逆……。


「そうだ、逆だ」

「でしょ? あとで飾り布を掛けなおさなくちゃ」

「そうじゃなくて、アリージュ、逆に考えるんだよ」

「え?」


 そう言った僕の頬は少し紅潮していたかもしれない。アリージュは不思議そうに、僕の言葉に耳を傾けようとする。僕は彼女の黒々とした瞳を見つめて、頭の中に巡る考えを一つ一つ言葉にしていく。


「生きて逃げていると知られたら、捕まって殺されてしまう。だったら、死んでしまったとわかれば、追いかけられもしないし、捕まりもしない」


 アリージュは僕の言葉の意味を図りかねているようだった。僕の顔を覗き込む黒い瞳には疑問が浮かんでいる。水路に水が流れていくように、頭の中に映像が思い浮かぶ。まだまだ解決しなければいけないことは山積みだが、うまくいきそうな気がする。ここで僕が不安そうな顔をしては、アリージュを心配させてしまう。ぎゅっと口端をひき結んだ。


「大丈夫、無理はしない。僕にはアリージュがいるし、アリージュには僕がいる」


 アリージュに「大丈夫」と声をかけるのは、砂嵐の夜以来かもしれない。あのときもアリージュを心配させたくなくて、同じ言葉をかけた。でも、砂嵐に巻き込まれないようにとただただ必死で、半ば自分に言い聞かせるようだった。今は違う。自分が大切に思う人を不安にはさせるまいという意志から生まれ出た言葉だった。


「今から説明するよ。このまま決行するわけではないと思うけど、アリージュの意見も聞いておきたいから」


 アリージュはこくんと頷いた。いつもの柔らかな空気の中に、微かな緊張感が横たわっていた。窓が外からの風でかたた、と揺れたのを合図に、僕はふたりでこの街を出る作戦を説明していった。





「……と、いうことだ。これで、


 アリージュに僕の考えを説明をした翌日。僕はカリーラ家の屋敷の西端に位置するナセルの部屋にいた。夜半過ぎ、ナセルの仕事が終わるのを待ってから、アズファンさんに密かに招き入れてもらったのだ。声を低めて、昨日のアリージュに話した作戦をふたりに説明をしていた。

 ナセルは部屋着で、床にあぐらをかいて僕の話に耳を傾けていた。アズファンさんがランプに油を補充したところで、口元を手で隠していたナセルが呟いた。


「アズファン、門衛の予定表は手に入ったか?」


 アズファンさんは自身の前衣に手を差し入れて、一枚の紙を差し出した。受け取ったナセルはすぐに目を通した。ランプで透けた文字を見ると、どの日、どの門に誰が務めているのかが簡潔に書かれていた。アズファンさんの完璧な仕事ぶりがうかがえる。


「うん、サルファの作戦でいこう。俺が考えていたものよりも良いかもしれない」


 その言葉を聞いた途端、喉の奥がじわじわと温かくなっていくのを感じた。体のどこかがくすぐったい。人に認められるって、こんなに嬉しいことだったのか。努めて平常心を装おうとする僕を見て、ナセルはふっと微笑む。


「それにしても、大胆なこと考えるなァ、おまえも」


 僕の家にあるものより何倍もの値段もするであろう酒杯をあおり、ナセルは自分の膝に肘をたてて頬杖をついた。素直に感心しているような彼の表情に、僕は何と答えたらいいかわからずハハ、とだけ笑った。燃えさかるランプの炎を瞳に映したナセルは続けた。


「勝負は一回っきり。失敗すれば危ないが、成功すれば放免だ。本当にやるのか?」

「やる」


 僕は間を置くことなく、背筋を伸ばして答えた。神妙だったナセルの眼が僕の眼をとらえたと思ったら、彼の表情が覚悟を決めたものに変わった。


「上等。準備は俺とアズファンに任せろ。サルファは踊り子に計画の子細を伝えてくれ。向こうも協力者が必要だろう」

「大まかには昨日話したし、協力してくれる人もいる」


 ナセルは静かに頷いた。僕の話を聞きながら、この三日で準備しないといけないことを考えているのだろう。本当に頭が上がらないな、と思った。


「実行は一座がこの街を出る日の深夜三時。合図は踊り子と話して決めてくれ」

「わかった。今日はもう遅いから、明日の夜話してくるよ」


 ナセルも僕も、明日の朝も仕事がある。普段どおりに生活しなければ、相手に怪しまれる隙を与えるだけだ。準備はそれぞれで行うことを約束して、今日はカリーラ家をあとにしようと立ち上がった。アズファンさんと部屋を出ようとドアノブに手をかけたところで、ナセルが僕の名を呼んだ。僕は振り返り、返事をする代わりに正面からナセルの視線を受け止めた。


「あと三日だ。思い残すことのないようにな」


 ナセルのその言葉に、いろいろな意味が含まれていることはわかった。この街に思い残すことがないように。父と母と三人で暮らしたあの家に思い残すことがないように。この街で出会った人々に、思い残すことがないように。僕は力強く頷いて、静かに部屋を後にした。ドアが閉まりきるまで、ナセルはずっとこちらを見守ってくれていた。

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