32 ほどける糸
心なしか、ランプの火が小さくなるように油の量が調整されているように思えた。橙の炎はいつもよりゆらめかず、アリージュの頬の曲線をくっきりと壁に映し出している。部屋の薄暗さと彼女の頬に塗られた白粉で血色はわからないが、まだ少々腫れているようだ。それ以外は、衣の美しさも、杯に水を注ぐ所作のそつのなさも、何も変わらなかった。こぽぽ、と水の静かな音が二人の間に転がった。
昨夜ナセルと話したことを早速実行しようと、煙亭の二階に僕は足を運んでいた。階段の下に向かうと、タミユさんは貼り付けたような笑顔で「アリージュになさいますか? ジュナになさいますか?」と僕に尋ねてきた。先日、ジュナさんに協力してもらってアリージュと密会していたことはバレていなさそうだった。アリージュの体が心配だったけれど、僕はアリージュを指名して二階に上がったのだった。
「あと四日……」
「タミユさんがそう話してたわ」
引きつる頬をかばっているのか、
「次の街での興業の話がまとまったって言ってたの。一昨日、こっそり私の所に来てくれたでしょう? その夜、タミユさんが『あと六日でこの街を出るから、ゆっくり休んでから荷造りしなさい』って」
「あれから二日経ってるから、あと四日ってことか。思ったより時間がないな……」
ナセルに協力してもらえることになったものの、具体的にどうするかはまだ話し合えていなかった。ナセルが考えていることはわからず、言われたとおりにマーシャル座がこの街を去る日を確認しに来ただけだ。ナセルのあの表情は、何かを考え込んでいる様子だった。あと四日という数字が、ナセルの思惑にとってどういう結果をもたらすのか、僕には見当がつかない。僕はナセルに頼ることしかできないのだろうか。
「どうしたの? 怖い顔してる」
アリージュに声をかけられて、ハッとした。隣には、眉をひそめて僕の横顔を覗き込む黒い瞳があった。思わず笑顔をつくろうとするが、頬の筋肉は上手く動いてくれない。アリージュは、僕の握り込んだ拳の上にそっと手を重ねた。
「私にできることは少ないけれど、サルファの話を聞くことはできるよ」
手の甲から伝わる皮膚の冷たさと血液の温かさが、僕のこわばりを溶かしていくようだ。アリージュは最初に出会った頃からこうだ。普段は人に気持ちを吐露することなどない僕は、「アリージュならすべてを受け止めてくれるのではないか」と錯覚してしまいそうになる。僕の唇をきつく縫い止めていた糸が、アリージュの手によって徐々にほどかれていく。自分の気持ちを確かめるように、僕は口を開いた。
「僕を心配してくれる人たちがいる。その人たちは、僕がアリージュとこの街を出ることに協力してくれると言ってくれた。でも、その人に頼ってしまっているだけの自分が……」
「頼るのが、心苦しいの?」
アリージュの問いかけに、僕は静かに首を左右に振る。頼ることは悪いことではない、と昨夜ナセルに
「ありがとう、サルファ」
「え?」
唐突に、アリージュに横から抱き締められた。彼女の細い腕が、硝子に触れるように優しく包み込む。キャラバンで訪れた遠い街の店で嗅いだのとよく似た
「サルファは、私と一緒にどうやったら無事にこの街を出られるのか、必死に考えてくれているのね。その協力してくれる人たちに任せるのではなく、貴方は自分も何かできないか、と考え続けてくれているのね」
その言葉に僕は思わず、彼女の肩を掴んで体を離した。今度は彼女が驚く番だった。先ほどまで自分で言葉にできない感情を彼女に言い当てられた気がした。ナセルに頼りきりになってしまうのが嫌なんだ、僕は。僕にも何かできないだろうか。だって、これからはアリージュと二人で生きていくのだ。
「そうだ。僕も、自分にできることをしたいんだ。アリージュのために、僕のために、僕が何もしないのでは意味がない。これまでと同じ、ただ風で流されていくだけの砂にはなりたくないんだ」
砂のように
「アリージュ、すごいな。僕も自分がどう思っているのかわからなかったのに、なんで君はわかったの?」
目を丸くしていたアリージュの表情はたちまち笑顔なり、ふふ、と笑い声を漏らした。
「だって、サルファ、目の下にクマができているんだもの。何かを考え込んでいて、寝れなかったに違いないと思ったの」
昨夜は眠れず、今朝も働きにカリーラ家に行っていたから、疲れが溜まっていたのかもしれない。相手の表情を見て相手が考えていることを察するなんて、僕にはできない芸当だ。アリージュに一本取られて、「そう、眠れなかったんだ」と僕も苦笑いした。
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