31 で、どうなさいますか?

 ナセルの言葉に、今までこの街で出会った人たちの顔が頭の中に浮かび上がってきた。名も知らぬ干し肉屋のおばさん、広場を駆け抜ける子どもたち。昼から飲んでいる休日のキャラバンタ。朝早くから井戸で水を汲んでいる女性たち。その中でひっそりと暮らしている僕がいなくなろうと、それはきっと広大な砂漠の中のほんの一握りの砂が風で流されるくらいに些細なことだと思っていた。でも、それは違ったんだ。


「だから、『死んでもいい』なんて言うな。そういうときは『力を貸してくれ』って言えばいい。誰かに頼ることは恥ずかしいことでも、悪いことでもない。だって、人は独りでは生きていけないんだから」


 必死に我慢していた僕の目からは、涙が流れ出ていた。ああ、どうしよう、もう止められない。次々とこぼれる涙をすべて拭おうとするが、指をすりぬけて流れ落ちていく。僕の嗚咽だけが、静かな夜に響き渡る。なぜ僕は泣いているんだろう。ナセルもアズファンさんも、指一本動かさず、ただそこにいてくれた。

 僕はまだ世間知らずな子どもだったのだ。そんな僕を、見守り続けてくれていた人たちがいた。僕がこの街を出て行くことは変わらないけれど、頼れる人たちがいるというだけで、この枯れた体の隅々にまで水が行き渡るように感じた。

 どのくらい時間が経っただろうか。僕は肺に大きく息を吸い込み、鼻をすすった。浅くなっていた呼吸を落ち着かせてから、ナセルをまっすぐに見据えた。


「ナセル」

「ん?」


 ナセルは僕の視線を受け止めてくれている。ナセルの斜め後ろに立っているアズファンさんも、穏やかな目で僕を見つめてくれていた。


「力を貸してほしい。僕は、この街を出てアリージュと生きていきたい。これから、ずっと。まだまだ見たいものや知りたいことが、たくさんあるんだ」


 ナセルは「最初っからそう言やいいんだ」と笑みをこぼした。彼の下がった眉尻を見て、「兄がいるってこんな感じなのかな」と思った。つられて僕も顔に皺を寄せると、ナセルの表情が商売人の顔に変わった。


「サルファ。おまえが踊り子とこの街を出ることに協力しよう。だが、条件がある」


 人差し指をたてて、ナセルは声を低める。僕は背中に冷や汗を感じた。確かに、タダで協力してくれ、というのも虫が良すぎる話だろう。僕はナセルに協力してもらえる価値があるものを持っているだろうか? 部屋を見渡し、何か高価なものがないかを探した。


「条件、って? お金は、少ししかないけど……僕が渡せるものなら、この家にあるものなら、何でも持っていってくれていい」


 おそるおそる伝えると、ナセルは一瞬目を丸くした。途端、大口を開けて笑い出した。その変わりように驚き、今度は僕が目を丸くする番だった。先ほどまで姿勢を崩さず立っていたアズファンさんでさえ、笑みが浮かぶ口元を手で隠しながら咳払いをしている。


「馬鹿。おまえって本当に人と関わるのが苦手なんだな。よくそれで踊り子を口説けたもんだ」


 ナセルは笑いが止まらないようで、腹を抱えて目尻に涙を浮かべている。僕は何か見当違いなことを言ったようだ。ただ恥ずかしさがこみ上げてきて、顔が熱くなっていくのが自分でもわかった。アズファンさんがもうひとつ咳をしたところで、ナセルは笑いをおさめた。


「金目のものより、この街を出て落ち着いたときに手紙をくれ。簡単な文なら書けるだろ? 見たものや知ったことを教えてくれればいい。ブルジャーワシさんや、アマモさんにも書け。何も言わずに出て行くだけじゃ、あの二人が可哀想だからな。おまえが急にいなくなっても、無事に暮らしてることがわかれば納得するだろう」


 そう言って、ナセルは人差し指と中指を揃えて机を叩いた。この街の習慣で、対等な立場の人間が合意をした場合、マハブ神に誓って裏切ることはないことを示す所作だった。僕も彼と同じように指を机につき、左から右へと同時にずらす。


「マハブ神に誓って」

「マハブ神に誓って」


 これで、僕とナセルの間に契約が交わされたことになる。僕を子どもとしてではなく、大人として見てくれた、ということだろう。どこか照れくさかったが、それがバレないように装った。


「で、どうなさいますか?」


 凜としたアズファンさんの言葉で、僕は思わず椅子に座りなおした。それに対しナセルは窓の外を一瞥してから、だらりと背中を曲げて頬杖をついた。窓の外は濃紺の絨毯が敷かれており、白い砂粒のような星が散りばめられている。


「もう夜も遅いし、細かいことは明日以降に話そう。アズファンはここ一週間の門衛の勤務予定を調べといてくれ。サルファ、おまえは明日の夜、踊り子から一座の興業が終わる日を聞いてこれるか? わかったら俺に知らせろ」

「どうするんだ?」


 僕の問いかけには応えず、先ほどまで饒舌じょうぜつだったナセルは口をつぐみ、窓の外をそのまま見つめながら何か考え込んでいるようだった。アズファンさんは慣れたことなのか、何も言わずナセルの次の行動を待っている。確かに、一座がアリージュを連れてこの街を出て行く前に行動に出なくちゃならないし、この街を出るには必ず門衛の目に留まる。早く情報を集めておくにこしたことはないだろう。


「よし」


 ナセルは膝をポンと叩き、立ち上がった。


「向こうさんの方が金も部下も持ってるだろうが、なんせ俺たちは砂漠の真ん中にあるこの土地で何年も暮らしてきてるんだ。地の利、人の利はこちらにある。と、すれば」

「と、すれば?」


 僕が問うと、ナセルは窓の外を指差してにやりと笑った。


「あとは、マハブ神が追い風をもたらしてくれるか、だな」


 窓で区切られた外の世界では、細かな砂塵が風で舞い上がっている音が聞こえた。三人とも、夜も更けた窓の向こうを静かに見つめていた。

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