30 遺すもの

 ナセルが息を大きく吸い込み、頬杖をついて窓の外を見た。驚きを隠そうとしているのが僕にもわかる。静かに吹きこんできたそよ風で、ナセルの銀髪がふわりと揺れた。


「この街を出ることは、しばらく前から決めてた。だから、ナセルからザマを買ったんだ。キャラバンで使いたいなんて嘘をついて、ごめん」

「それはいい。買ったザマで何をするかなんて、おまえが決めることだ。でも、なんで今なんだ? もう少しキャラバンに参加して、金をしっかり貯めて、外で仕事を探してからでもいいだろう? 慌てて出て行こうとしているのは、俺が余計なことを言ったからか」


 絞りだすような声でナセルは僕に問う。僕は首を左右に振って「違う」とはっきり口にした。


「街の誰もが薄々気づいていることだ。この街はもう枯れかけだって。僕だってもうわかってる。街が廃れていこうが、それでもいいと思ってたんだ。今までは……」


 いつの間にか、目の周りが熱を帯びていた。ああ、怖い。人と触れあうって、こんなにも怖い。自分の肉がそぎ落とされ、骨の白さが露わになっていくようだ。でも、僕は変わらなければ。これからは独りではなく、ふたりで生きていくと決めたのだから。


「一緒に生きていきたいと思う人ができた。僕はその人と一緒にこの街を出て行く。それには時間がないんだ。今じゃないと」

「時間がないって、どういうことだ? 何で今じゃないとダメなんだよ?」


 そこからは水脈の堰が決壊したように、僕はアリージュのことをナセルとアズファンさんに話した。アリージュとは偶然、街の外れで出会ったこと。何回も逢瀬を重ねて話をしたこと、砂嵐に遭った夜に、アリージュがひどい環境にいるのを知ったこと。会いたくて、二階にまで会いに行ったこと。話す順番もめちゃくちゃで、とても聞けたものではなかったかもしれないけれど、二人は何も言わず黙って耳を傾けてくれていた。昨日お互いの気持ちを確かめ合ったことも話し終わると、静寂が僕らを包み込んだ。握りしめていた拳の内側に、じっとりと汗が滲んでいるのがわかる。ナセルは椅子の背もたれによりかかって、低い天井を仰ぎ見た。


「そういうことか。一座が興業を終えるまでにそのアリージュっていう踊り子とこの街から出て行かないといけないってことか。そうしなきゃ、次はいつどこで会えるかわかったもんじゃないからな」


 僕はその言葉に小さく頷いた。心臓が悲鳴をあげそうだ。アズファンさんは僕とナセルの顔を交互に見て、口を挟むことなく、ただそこで見守ってくれていた。


「許されないことだとわかっているし、理解されるとも思ってない。たとえ死ぬことになったとしても、これで良かった、と思う自信がある」


 震える僕の言葉に、ナセルがひとつ、大きな溜息をついた。銀髪を掻き上げ、ナセルの視線が僕を真正面から射抜いた。


「俺は反対だ、サルファ」


 その重い言葉に、僕は目の前が急に真っ暗になったように思えた。正面に座っているはずのナセルの声が、頭の中に直接響いてくるようにも、どこか遠くから聞こえてくるようにも感じた。「いいか」と前置いて、ナセルは机の上に身を乗り出した。


「死んでもいい、ってのは、言った奴の迷惑な自己満足でしかない。その場の雰囲気や置かれた局面に酔ってるだけだ。親が『自分は死んでもいいから』って言って子どもを助けたとする。社会的には美談だろうよ。でも、その子どもはどう思う? 親に救われた命に感謝して、それで幸せに終わると思うか?」


 静まりかえった空気が僕の両肩にのしかかる。僕らの決断を認めてもらえないのは、覚悟していたつもりだった。僕はこれから、世間的には許されないことをしようとしているのだ。お金を払わずに、『商品』である彼女を連れて行こうとしている。もう大人と対等に商売をしているナセルのことだ。僕より幾分、広い世界を知っている。僕は顔を上げることができなかった。


「『死んでも』なんて言葉は、死んだあとに何も遺すものがない人間が言うんだ」

「それなら、」

「おまえに遺すものが、この街には何もないって言うのか?」


 空気が張り詰めた。僕はナセルの視線で椅子に縫い付けられたように動けなくなった。ナセルの言葉の意図がわからず、黙っていることしかできない。ナセルは続ける。


「我が子同然におまえを育てたブルジャーワシさんやアマモさんは、おまえが死んだらどう思う? おまえの働きに感心していた飼育長は。おまえとアリージュの思いを知って送り出した俺とアズファンは。おまえの未来を思ってキャラバンに出続けた親父さんとおふくろさんは、おまえが死んだら『死んでも想い人と過ごせたんなら良かったな』って考えるとでも思ってんのか?」

「ナセル様」


 ナセルの声が段々と大きくなっていったところで、アズファンさんが静かにナセルの名を呼んだ。「わかってる」とだけナセルが応えると、杯に残った水を一気にあおいだ。ナセルが先ほどよりも落ち着いた声で「サルファ」と僕を呼ぶ。僕は今にも溢れそうな感情を抑えるように、眉根を寄せてから顔を上げた。


「おまえは独りだったって言ったけど、周りの人間はおまえが思っている以上に、おまえのことを考えてるよ。ブルジャーワシさんは俺と会うたびに『サルファと仲良くしてやってくれ』って言ってくる。飼育長だっておまえの働きに感心して、もっと長い期間雇ってくれなんて頼んできたよ。俺とアズファンも、おまえの話を聞こうと思って今日、ここに来た。確かにおまえに家族はいないかもしれない。でも、みんなおまえのことを気にかけてて、おまえが幸せになれるよう力を尽くしてやりたいと思ってるよ」

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