第3章 夜明けのように
29 助言
今日は気温が高く、日差しが肌に刺さるようだ。ザマの糞の匂いも、いつもより強い。アリージュと気持ちを確かめ合った夜も明け、僕はナセルの家のザマ小屋で仕事をしていた。飼育長に指示されたとおり、ザマの飼料が詰まった袋を倉庫から小屋に運ぶ。それほど遠くない距離ではあるが、ひとつの飼料袋が重く、何度も運んでいると肩に負担がくる。歯を食いしばりながら、僕は昨日と同じことを考え続けている。
アリージュの想いも確認できたとはいえ、状況は変わっていない。僕一人でアリージュを連れて、門衛の目を逃れつつこの街から出る方法を考えなければいけない。協力者も必要だけれど、当分の間生きていく生活費も必要だ。幸い、考えながらでも労働はできる。気持ちばかりがはやって思考が堂々巡りしてしまっていることに気付き、僕は溜息をついた。顎に伝う汗を襟元で拭っていると、聞いたことのある声が僕を呼んだ。
「サルファ様」
アズファンさんだ。書類箱を抱えて、僕を方へ歩み寄ってくる。浅黒い肌が白い使用人服によく映えている。僕は飼育長に一言ことわってから、アズファンさんと小屋の側の日陰に入った。
「アズファンさん。どうかしましたか?」
「ナセル様から、次のキャラバンへの参加はどうするのかとの
アズファンさんに言われて、ずっと返事を保留にしたままだったことを思い出した。キャラバンに参加するつもりはなかったし、それよりもアリージュの気持ちを確認しなければいけないという思いが強かったこともあって、すっかり忘れてしまっていた。「あー……えっと……」と口に出しながら不自然にならない答えを急いで探したが、僕の目は泳いでいたかもしれない。アズファンさんの頬が少しゆるんだようにい見えた。
「何か気になることがおありでしたら、ナセル様とお話しされてみてはいかがでしょう? ナセル様ならキャラバン隊には顔が広いですし、何か助言くださるかもしれません」
アズファンさんは眉尻を下げながらそう言ってくれた。その表情から、本当に心配してくれているのが伝わってくる。
もうここまできたら、ナセルに頼るしかないのかもしれない。ブルジャーワシおじさんとアマモおばさんは優しい人たちだから巻き込みたくない思いが強い。ナセルももちろん巻き込みたくはないが、誰からも親しまれているし裏表のない人間だから、味方になってくれると心強い。万が一協力を拒まれても、僕の計画を座長にばらして命の危険にさらすようなことはしないだろう。カリーラ家の子息なのだから、座長にお金を渡されて情報を渡すなんて可能性も少ないはずだ。僕はまた、ひとつの賭けに出ることにした。
「アズファンさん。ナセルが空いている時間はわかりますか?」
「ええ。夜でしたら空いておられますよ」
「なるべく、人のいないところで話せると嬉しいんですが……」
アズファンさんは不思議そうな顔をしつつも、理由は聞かなかった。こういう気遣いをできるから、ナセルが側に置いておくんだろうな、と思った。
「かしこまりました。ナセル様にそのようにお伝えしておきます。場所はナセル様にお任せして、あとでお伝えしに参ります。そちらでよろしいですか?」
「ありがとうございます。それでお願いします」
僕がそう言うと、アズファンさんは誠実そうな笑みで一礼して屋敷の中に消えていった。その後ろ姿を見届けてから、僕はザマの飼育仕事に戻った。
僕の家にナセルとアズファンさんが揃って尋ねてきたのは、砂丘の向こうに夕陽が姿を隠した直後だった。
「それにしても、なんで僕の家で?」
「おまえが人のいないところで、って言ったからだろう? 俺の家ではどこかしらに人がいるし、酒場でもまわりに誰がいるかわからないからな。サルファは独り暮らしだし村の外れに住んでいるから、人の心配はせずにすむだろう?」
それはそうだけど、と言って、僕は父さんと母さんが座っていた椅子を奥から引っぱり出してきた。カリーラ家のものほど立派ではないけれど、床に座らせるよりましだろう。埃を払って、部屋の端に据えてある机を囲むように置いたが、アズファンさんは「結構です」とナセルの斜め後ろに立った。水差しの水を注いだ杯を三つ用意してから、僕はナセルの正面にある椅子に腰掛けた。
「サルファのことだから、人払いを頼むなんてよっぽどのことだろうからな。 どうした? ザマを買うのを止めたいとか、そういう話か?」
ナセルは話の内容に目星をつけていたようだ。僕は水を飲んでから、首を左右にふる。「じゃあ、なんだ?」と問われて、僕は意を決して話を切り出した。
「この間、ナセルは言ってたよな。この街はもうダメだって。廃れていくしかないって……」
そう言った途端、ナセルの顔つきが変わったのがわかった。「忘れてくれって言っただろ」とナセルは茶化したけど、僕が応じなかったのでそのまま黙って僕の話を待ってくれた。アズファンさんは口を挟まず、じっと僕たちの会話を見守っている。
「実際のところ、僕もそう感じてたんだ。ずっと独りでこの街で生きて、この街が枯れるまでずっとキャラバンで荷物を運んで、いつか砂に埋もれて独りで死ぬんだ、と思ってた」
ナセルの瞳に、机の上に置いたランプの火がゆらめいている。僕は杯を握った自分の指先が冷えているのに気づいた。怖いのだ。人を信じて、自分の考えていることをさらけ出すのが。反対されてしまったら。呆れられてしまったら。
刹那。僕の肩に、そっとアリージュの手が置かれたような、そんな感覚に陥った。そうだった、もう僕は独りではない。指先は冷えているけれど、腹の底はほのかに温かい。杯を置き、ぎゅっと拳を握りしめた。
「僕は、この街を出るよ」
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