28 難題

 静寂で満ちていた部屋に、コン、と小さな音が響いた。僕は一瞬で頭の中が真っ白になった。タミユさんに気づかれたのだろうか。しまった、という想いが頭を駆け巡ったと同時に、ざあっと血の気が引くのがわかった。


「サルファ、こっちへ」


 アリージュに導かれるまま、ベッドの反対側に慌てて身を隠す。扉からは影になって見えない位置だ。さらにアリージュは姿勢を変えて、その横たえた体で僕を隠した。先ほどまでとはうってかわって、じわりとした嫌な汗が額に浮いた。ゆっくりと扉が開かれる気配を感じ、膝を抱えて息を殺した。


「そろそろ時間よ」


 聞き覚えのある緊張感に満ちた声に、僕は息を大きく吐き出した。体を部屋の中に滑りこませてきたジュナさんは、後ろ手で音もなく扉を閉めた。僕は立ち上がり、ジュナさんの方に歩み寄る。アリージュはベッドの上で僕を目で追っているようだった。


「そろそろ私の部屋に戻らないとまずいわ。話は終わったの?」


 僕は何も言わずに頷いた。ジュナさんは「そう」とだけ応えて、目を閉じて俯いていた。僕の表情で悟ったのか、薄い唇を噛みしめている。ジュナさんはしなやかに衣裾を翻しながらアリージュのそばに近寄って、彼女の顔を覗き込んでいた。


「アリージュ。アナタは本当にいいのね?」


 ジュナさんがアリージュに問いかけると、腫れた頬でこくりと頷く。ジュナさんはアリージュの額を一撫でする。


「本当に馬鹿な子……。アナタは月灯りの下では生きていけないんだって、前々からわかっていたのにね」


 ジュナさんは目を細めながらアリージュの額にキスを落とした。白い額についた口紅を、ジュナさんの親指が拭う。


「幸せになるのよ。後は私がなんとかするから」 


 アリージュはもう一度頷いた。それを見届けたジュナさんは「行くわよ」と僕を促す。僕はアリージュに「また来るよ」と伝えた。アリージュは小さな声で「うん」と返事をし、ベッドの裾から伸びた手がふらふらと揺れていた。今度は音をたてないように慎重に部屋を後にした。


 無事にジュナさんの部屋に辿り着き、僕と彼女は張り詰めていた糸が切れたようにソファに並んで腰を下ろした。二人揃って大きな息を吐く。机には新しい酒瓶が置かれていた。ジュナさんは酒瓶を傾けてふたつの杯に手早く注ぎ、そのうちひとつをぐいっと勢いよく煽った。僕も喉が渇いていたので手を伸ばして一口舐めたが、かなり強い。酒が通ったところがかっと熱くなる。あわてて隣にあった水を口に含んだ。


「で、どうするの?」


 ジュナさんはなんともないのか、すでに飲み干した杯になみなみと次の酒を注いでいる。

 僕は決めた。アリージュを悲しませない。絶対に、彼女とこの街を出てふたりで生きていく。そうするには、僕だけの力だけではどうにもならない。今日だって、ジュナさんがいたからアリージュと会えたのだ。僕だけではアリージュと話す機会を与えられず、このまま離ればなれになっていた可能性もあった。今日は不意を突かれたとはいえ、もっと考えて行動しなければ。考えろ。何か方法があるはずだ。


「単純にふたりで逃げ出すのは止めた方がいいわよ。アナタはまだしも、アリージュは砂漠での移動に慣れているわけではないし、座長は必ず追っ手を放つ。ここでは砂漠での移動なんか朝飯前の人が多いだろうから」


 多少とげとげしい口調で、ジュナさんは考え込む僕に追い打ちをかける。


「僕もそれくらいわかってますよ」


 言葉の棘に刺激されるように、僕も口調が荒くなってしまった。すぐに僕が「すみません」と謝ると、彼女もばつが悪かったのか、何も言わず再び酒で唇を湿らせていた。


「砂漠を移動するためのザマは確保したし、しばらくの間の生活費も次の街まではなんとかなります。でも僕だけでは、誰にも知られずにアリージュを逃がすなんてできない。この街の外に通じる門は東門、西門、北門の三つがありますけど、どれも警団の門衛が夜も休みなく見張っている。絶対に、誰かに見つかる」


 大陸行路の途中にあるこの街には、外部の人間の往来が多い。そのため、「警団」という組織が街の治安を守るために据えられている。めったにないが街の中で事件や事故が起こった際の処理を行う役目を担っている。また、三つの門に門衛として務め、この街に滞在するキャラバンの荷を狙う賊の侵入を防いだり、不正なものが持ち込まれていないか検閲したりするのだ。門を出れば僕の名前は記録されないまでも、「少年一人、少女一人、ザマ一頭で通過」という事実は残るだろう。調べられればすぐにそれらが僕たちだとわかってしまう。


「危険だけど、協力者が必要です。僕たちを隠して逃がしてくれる協力者が」

「それはそうかもしれないけど、その協力者が裏切ったらどうするのよ? 座長がお金を使って、その人間に口を割らせたら終わりよ」

「そうです。だから、信じられる人に頼まないと……」


 言いかけたところで、部屋の扉がノックされた。今度こそタミユさんか、と思ったその瞬間、僕はジュナさんにソファに押し倒された。肺の中の空気が押し出され、激しくむせる。ジュナさんは手早く、自分の上衣を脱ぎ捨て、僕の服の前をはだけさせた。


「ちょっ……!」

「黙ってて」


 キイと音をたてた扉の影に、タミユさんが着ていたドレスの裾が見えた。ジュナさんが僕の上に覆い被さっているので、僕からはタミユさんの表情はうかがえない。


「お時間です」

「あら。これからイイところだったのに」


 ジュナさんの声色は先ほどまでのものとは違い、妖艶な笑いを含んだものになっていた。宙を彷徨っていた僕の手はジュナさんに導かれ、タミユさんに見えないように彼女の腰に回された。


「……あいにく、本日は時間の延長は承ることができません。恐れ入りますが、ご退室の準備をお願いいたします」


 僕が返事をすると、「ジュナ、早く」とタミユさんのたしなめる声がして扉が閉められた。僕がジュナさんの体をぎこちなく引き剥がすと、彼女はぷっと吹き出した。何がおかしいのかわからずにいると、何事もなかったようにジュナさんは衣服を整え始めた。


「アナタって不思議。女も知らないのに、アリージュのことは運命の人だと思って危険をかえりみない。やってることがグチャグチャで意味がわからない」


 フフフ、と笑いが漏れ出ている彼女の変わり身の早さに僕は動揺した。が、貶されていることは僕でもわかる。ただ、言われてみればそのとおりだ。アリージュとは恋仲になっているわけでもないし、一緒に寝たわけでもない。なのに、お互い惹かれあうこの関係を、誰が理解してくれるのだろう。彼女の体が目的だと言う人間のほうが周りからは理解されるだろう。何も言い返せず、僕は黙って自分の身支度を調えた。


「でも、グチャグチャなほうが人間らしいわ。私たちなんかよりも、よっぽど」


 ジュナさんは扉のノブに手をかけて、僕を招いた。歩み寄った僕の肩に手をかけて、ぐいと引き寄せたかと思えば、耳許で囁く。


「手筈が整ったら、連絡をちょうだい。アリージュをここから逃がすのは、私が手伝うわ」


 扉が開かれると、そこには不機嫌の上に笑顔を貼り付けたタミユさんが立っていた。綺麗に紅に縁取られたジュナさんの唇がゆっくりと笑っていく。


「またね、サルファ。“約束”よ」


 ジュナさんは扉の前で手を振って、僕を見送った。タミユさんの後に続いて、僕は二階からいつもの世界へ戻っていく。煙亭の外に出ると、煌々と月が輝きを増していた。月明かりに照らされた道には小さな竜巻ができていて、砂が軽く巻き上げられている。


 約束。ジュナさんとは「アリージュの笑顔を守る」と約束した。最後の台詞は、そのために上手く手筈を整えろ、という意味だろう。それには協力者がいる。絶対に僕らを裏切らない、信用のおける人物が。あと数日で、アリージュはこの街を去ってしまうかもしれない。時間はなかった。


「信用のおける人、か……」


 今まで独りで生きてきた僕には難題だった。しかし、そうも言っていられない。僕はどうすれば安全にこの街を出られるのか考えながら、砂にまみれた帰路についた。

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