27 新しい世界

「サルファ」


 アリージュの呼びかけに、僕の手の震えは不思議と止まった。橙色のランプの火が、寝布に広がる彼女の黒髪の上で揺らめいている。アリージュの唇にいつものような潤いはなく、口角には切れた後にかさぶたができていた。その唇がゆっくりと動きながら、小さな声を紡いでいく。ランプの油が燃える香りが、僕の鼻孔に微かに届いた。


「泣かないで」


 繋いでいた手をほどき、僕の頬に彼女の手がおもむろに伸ばされる。頬を伝った涙が落ちて、アリージュの寝布に不規則な模様をつくっていた。アリージュの細い指が、僕の涙を力なく拭う。人前で泣いた最後は、いつだっただろうか。


「私が前に言ったこと、覚えてる?」


 ベッドの縁から下りて床に膝をつき、視線をアリージュにあわせた。痛ましい頬の傷の上にある黒い瞳は、僕をまっすぐに見つめてくれている。静かな夜で、アリージュの掠れた声もしっかりと耳に届いてくる。


「私が踊っているのは、怖いからだって。踊らなくなって、人とのつながりも、家も失うことが怖いからだって」


 僕はもう一度彼女の手を握り、静かに耳を傾ける。


「でもね。サルファと会って、話をして。一緒に過ごした時間は少ないのに、なんだか安心できた。踊ってなくても、お金をもらってなくても、サルファは私の隣にいてくれるんだって思った。初めてわかったの。『私は独りじゃない』って思えると、こんなにも胸の奥が温かくなるんだって。でも……」

「でも?」


 アリージュの目尻に、涙がたちまち溜まっていく。瞬きをすると、目尻からつう、と流れ落ちた。その涙を今度は僕がすくってやる。ぎこちないながらも、丁寧に丁寧にすくう。アリージュは肩を揺らして軽くむせた。僕は手を伸ばし、背中をさすってやる。アリージュの背中は、服の上からでも均整のとれた筋肉がついているのがわかる。踊るのに必要な筋肉が備わっているのだろう。それなのにどこか弱々しく、華奢で、怯える子どものように震えている。僕は彼女の心をむしばむ孤独を、取り払ってあげたい。


「私たちが一緒に逃げたとわかれば、座長はきっとサルファのことを許さないわ。私のせいで、サルファが死ぬのだけは嫌……」


 彼女が顔を横に背けたら、頬に置いていた布がぽとりと枕に落ちた。布から現れた痛々しい傷跡は赤と紫が入り交じっていて、僕の心の中のようだった。アリージュを連れて逃げ出したい。アリージュが悲しむのは嫌だ。ふたつの感情が渦巻いて、この弱々しい手を離してしまいそうになる。でもこの手は離したくない。いつの間に、こんなに欲張りな人間になっていたのだろう。今までは、どちらか片方を諦めてしまえば楽だった。もう諦めたくないんだ、僕は。ランプの火がジ、と音を立ててちらついた。


「僕も、死ぬのは嫌だ」


 僕は無理やり笑顔をつくって、彼女の手を強く握った。言葉を一つひとつ自分の中から探し出して拾いあげていく。 


「だって、これからずっと君と生きていきたい。一緒に美味しいものを食べて、一緒に星を見たい。海も見たいし、人で溢れかえる街を歩きたい……」


 数えていた僕の指が止まるのを見て、アリージュは僕の言葉の続きを待っていた。

 きっと僕は、今まで自分の世界がこの街で完結すると思っていたのだ。砂漠の向こうへ何度も足を運んでいるのに、連れて行ってもらわないとそこにはたどり着けないと思い込んでいた。乾いた砂漠から一歩踏み出せば、そこにある道は新しい世界へと繋がっているのに。その新しい世界を一緒に分かち合いたいと思える人に初めて出会えた。僕にとって、それはアリージュだったんだ。 


「アリージュ、君のことが好きだ。踊る君も、笑う君も、弱い君も」


 言葉がこんなにもどかしいなんて、今までの僕は知らなかった。僕の手から、音から、目からこの気持ちが伝わりますように。そう祈る。


「独りが寂しいなら、ふたりでいよう。この街を出て、いろんなものをわかちあおう。もし君と引き裂かれるようなことがあっても、僕はこの世界からまた踊る君を探し出して、同じように手をとるよ」


 僕は陶器のようにすぐ壊れてしまいそうな彼女の手の甲に、優しく小さなキスを落とした。アリージュはそれを見て、ぽろぽろと涙をこぼしながら微笑んだ。その笑顔は、いつしか太陽の下で見たものと同じだった。


「ぜったい?」


 僕は頷く。彼女に「本当に?」を念を押され、「ああ」ともう一度僕は応える。ランプの炎に照らされた彼女の涙の粒は、どこかの街で見かけた宝石のようだ。彼女の黒い目にはランプの火が灯っていた。


「私もサルファと一緒に生きていきたい。私を、ここから連れ出して」


 瞬間、僕は無意識にベッドで横になる彼女を抱き締めていた。

 ああ、人はこんなにも熱い。太陽に照りつけられた砂よりも熱い。泣きそうになる熱さだ。僕の背中にまわされたアリージュの腕に強い力がこめられたのがわかった。「好きだ」と、もう一度彼女の耳許みみもとでささやいた。言葉にせずにはいられなかった。彼女はそれに呼応するように、僕の胸元で小さく頷いた。腕の中に彼女の体温を感じながら、僕はしばらくそのままでいた。

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