26 ふたり

 ジュナさんはしばらく何も言わなかったが、頬を伝う雫をひと拭いしてゆっくりと立ち上がった。僕を見据えながら話し始める。歪んだ唇が震えている。


「座長は無情な男よ。アリージュを連れて逃げたのがわかれば、地の果てまで追われるわ。捕まったら、殺されるわよ」

「わかっています」


 あの座長なら、「高価な商品を薄汚い盗人にとられた」と考えるだろう。砂嵐のときの態度から見ても、逃げた後捕まればただでは済まないことは百も承知だ。しかし、僕の気持ちは固まっていた。


「捕まっても殺されるのは僕だけのはずです。だって、アリージュは座長にとって“大切な商品”だろうから」


 ジュナさんは僕の言葉に目を見開いて、すべてを悟ってくれた。強ばっていた体から力が抜けたのか、しなやかな曲線を描く肩が下がり、大きな溜息が漏れた。つややかな表情でもなく、不安に駆られたものでもなく、眉尻は下がり、すっかり“姉”の顔になっていた。


「ひとつだけ、約束して」


 僕は差し伸べられた白い手をとり立ち上がる。ジュナさんは僕の手を包み込み、自身の額を僕の額に当てて呟いた。


「あの子の笑顔を守って」


 僕は彼女の細い手を強く握り返し、頷く。


「僕の命が続く限り、アリージュの笑顔を曇らせないと誓います」


 「マハブ神に誓って」と付け加えた。ジュナさんは彼女自身が信ずる神に祈っているのか、しばらくその姿勢のまま動かなかった。外では風が吹き始めたのか、窓がカタタ、と揺れる音が聞こえた。


 ジュナさんは細心の注意をはらいながら扉をゆっくりと開けた。隙間から廊下の様子をうかがう。昨日の事件が噂になっているのか、二階に上がってくる客はいなさそうだ。価格を交渉している声も、廊下が軋む音も聞こえない。

 彼女の合図とともに、廊下に静かに出る。二階で踊り子を買うときの決まりとして、踊り子と部屋で会っている間、別の部屋に移動したり他の踊り子を連れ込んだりすることはもちろん禁止されている。音を立てれば、階下でひかえているタミユさんに見つかってしまうだろう。古びた廊下が音を立てないよう、足を半ば引きずるようにして暗い中を進む。ランプを持ち出せば灯りがゆらめいてしまうのでそれもできず、廊下の壁を伝っていくしかなかった。階段のすぐそばにあるジュナさんの部屋から三つ隣の扉が、アリージュの部屋だ。

 僕がさらに一歩踏み込んだ、そのとき。床板にひびが入っていたのか、廊下が「ギイ」と悲鳴をたてた。しまった、と思った。


「どなた?」


 ギシギシと、タミユさんが一歩ずつ階段を上がってくる音が聞こえる。静かな廊下に自分の心臓の音がこだましているのかと思うほどうるさく感じた。ここでアリージュに会おうとしていたことがバレてしまえば、今後二階に上がることは禁止され、きっと二度と会えない。そうなればこのまま彼女はこの街を去ってしまうだろう。

 僕がどうすべきか考えあぐねて立ち止まっていると、暗闇の中で腕を強く引かれた。


「アナタはアリージュの部屋に入って。私がなんとかするわ」


 耳元でジュナさんがそう囁いたと思ったら、ジュナさんが階段の方へ引き返す気配がした。彼女の甘い香りが僕のそばを通り過ぎる。僕は言われたとおりに急いでアリージュの部屋の扉を開けて飛び込んだ。急ぎながら後ろ手に静かに閉めるとちょうど外から会話が聞こえてきた。


「ジュナ。接客中に何をしているの? 先ほど廊下を歩く音がしたけれど」

「置いていたお酒が少なかったみたいで、ちょうどタミユを呼ぼうとしたところだったの。店長に頼んで酒のおかわり、持ってきてくれるかしら?」


 その後もタミユさんの言葉が続いたが、そこはよく聞き取れなかった。お互いに言葉を二、三言交わしたあと、一人分の階段を下りていく音が聞こえた。なんとかジュナさんがタミユさんをごまかしてくれたのだろう。僕はハア、と大きく息を吐き出した。知らず知らずのうちに息を止めてしまっていたようで、大げさに肩を落として息を吸った。


 アリージュの部屋は、いつもより灯されているランプの数が少なく薄暗かった。僕はゆっくりとベッドが配置された部屋の中央まで足を運ぶ。規則正しい寝息が聞こえてくる。ベッドのかたわらまで近づき、彼女の顔を覗き込んだ。

 アリージュは頬に綺麗に畳まれた布を当てられて眠りについていた。左頬が右頬よりも微かに膨らんでおり、唇の端はまだ血の塊がついて青くなっている。目の下にはクマができていた。布に指先を伸ばすと、すでに布は乾いてしまっていた。僕はベッドのそばに置かれていた水盆に新しい布を浸し、静かに布を絞る。アリージュの頬に置かれていた布をそっと取り、新しい布を置いてやった。


 伏せられていた長い睫毛が、数回瞬いた。次の瞬間、眉根がゆがめられて痛そうな表情になる。苦しげな呼吸とともに、目がゆっくりと開かれた。焦点の合わない目に映るよう、僕はベッドに身を乗り出す。


「アリージュ。僕だ、安心して」


 彼女の黒い瞳がようやく僕をとらえた。


「サル、ファ……? どうして……?」

「ジュナさんに無理を言って入れてもらったんだ。タミユさんに気づかれるとまずいから、小さな声で話そう」


 彼女はこくりと頷いた。少し熱が出ているのか、頬が赤く額にうっすらと汗をかいていた。まだ夢との境目をさまよっているのか、瞼が閉じそうになっては開かれるを繰り返している。


「ジュナさんに聞いたよ。大変だったね」

「へいき。心配かけて、ごめんね……」

「アリージュが謝ることじゃない」


 ひどい目にあったのは自分自身なのに、周りに気を遣ってしまうところが彼女らしい。無理に笑おうとすると頬が痛むのか、僕の方を見つめて微かに微笑むだけだった。こんな状態の彼女に大切な話をするのはいかがなものかと頭をよぎったが、伝えたい気持ちが止まらなかった。


「アリージュ、君に聞いてほしいことがある。辛いかもしれないけど、聞いてくれるか?」


 僕がそう尋ねると、寝布の下からアリージュの手が伸びてきた。僕はそれを右手で握りしめる。アリージュがひとつ頷いたので、ベッドの縁に腰掛ける。彼女は顔を傾けながら、僕と繋いだ手をじっと見つめている。


「アリージュ。一緒にこの街を出よう。どこか違う街に行って、ふたりで生きよう」


 その言葉を聞いた彼女の熱い手が、弱い力で握り返してきた。みるみるうちに目尻が濡れていく。


「でも、サルファは……」

「僕はこの街で独りで生きていくよりも、この街から出て君とふたりで生きていきたい。アリージュと、生きたい」


 こんなにわがままな自分は初めてだった。今まで僕は、「そうするのが当たり前なこと」「そうしなければならないこと」だけをして生きてきた。そこに「自分がやりたいこと」はひとつとしてなかった。初めて、自分がやりたいことを言葉にした。それが、こんなにも怖いことなのだと知らなかった。僕の手が震えていることに、そのとき気づいた。

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