25 太陽の下

 ジュナさんの唇が弧を描いて固まった。彼女は表情を隠すようにきびすを返してソファの端に座る。テーブルに置かれていた水桶に布を浸しながら、ようやく唇が優美に動き出した。


「まあ、お座りになって」


 ジュナさんは布をゆるく絞ってから、両手で広げて僕が手を伸ばすのを待っていた。わざとらしい口調に、僕は少しいらだちを覚える。扉の前に立ち尽くしたまま、ジュナさんを問い詰める。


「何があったんですか? 昨日までアリージュは普通だったのに」

「お座りなさいな」


 意識的に低められた彼女の大きな声で、ぴんと糸が張りつめたような空気に変わった。僕はひとつ溜息をついて目を閉じる。ここで彼女を責めても何の得もない。観念してジュナさんの隣に腰かけた。彼女が差し出してくれた布を渋々受け取った。


「落ち着いて。タミユは何と言っていたの?」

「何も。ただ今日はアリージュを指名できないとだけ」


 水が一滴、瑞々しい布から腕に伝わってきたおかげで、やけに僕の体が熱くなってしまっていたことに気づいた。そのまま顔を拭き、落ち着けと口の中で小さく唱える。ジュナさんは足を組み替えながら、目の前のテーブルを見つめている。汗ばんだ顔から汚れが拭われ、僕は少しずつ自分を取り戻していた。ジュナさんは独り言のように漏らした。


「あの子、昨日悪い客にあたったのよ」

「悪い客?」

「アナタが帰った後に二階に上がってきたんだけど、他の店の安酒でひどく酔っていてね。タミユも一度断ったらしいんだけど、金を多めに払って強引に上がってきたらしいわ」


 彼女は砂漠に潜む毒蠍どくさそりを見たときのように眉をしかめた。テーブルに置かれていた煙管に手を伸ばし、慣れた手つきで煙草を詰め込んでいく。僕に話しかけていると言うよりも、自分の中で情報を整理しながら話している口ぶりだった。


「その時間、ちょうどアリージュしか空いてなくて。部屋に入ってくるや否や、いきなりベッドに押し倒されたみたいでね。客のろれつも回ってなかったそうだし、アリージュは『水でもどうか』って聞いたらしいの。そうしたら逆上されたらしくてね」


 ジュナさんの桃色の唇から灰色の煙が吐き出される。枯れ草の燃える香りと、彼女がまとう香水の香りが部屋に満ちていた。だんだん大きくなる僕の鼓動を無視するかのように、煙管が盆に置かれる乾いた音が響いた。


「平手で頬を何回か殴られたらしいの」


 心臓は一時いっときも休むことなく血液を送り出しているはずなのに、手の先がすうっと冷えていくのを感じた。ジュナさんはもう一度煙草を吸って煙を吐くと、ぽつりぽつりと知っていることを話してくれた。

 激しい物音を聞いた隣の部屋の踊り子が不審に思ったらしく、タミユさんが呼ばれた。タミユさんがアリージュに呼びかけても返事がなかったので、すぐに階下の使用人を呼んで扉を開けて入ったそうだ。ベッドの上で、アリージュの上に男が馬乗りになっていたという。男の目は充血していてよだれを垂らしながら、顔を真っ赤にして使用人を睨んだ。すぐさま男はベッドから引きずり下ろされ、使用人に連れて行かれたという。その間にも男は激しく抵抗して、使用人の中にも怪我人が出たそうだ。


「アリージュはそのとき気を失っていて、唇も切れて血が流れてたそうよ。今朝には目を覚まして、記憶もはっきりしてたから大きい怪我ではないわ。ただ今日一日大事を取って休ませてるの。今はだいぶ腫れも引いてきたから、明日になれば化粧で隠せるくらいになると思うわ」


 ジュナさんの話を聞いている間、僕は両拳を膝の上に押さえつけていた。手のひらの肉に爪が食い込んでいるのがわかる。痛みは感じないが、ただただ心の中で砂嵐がごうごうと渦巻いていた。彼女たちが言っていた「踊り子は商品なのだ」という意味が、大地がひび割れていくように僕の心をえぐっていく。彼女たちはどれだけ傷つけられてきたのだろう。その傷を何度化粧で隠されてきたのだろう。そんな考えが頭の中をぐるぐると駆け巡る。僕は立ち上がり、膝を床についた。拳を額に当て、ジュナさんに頭を下げる。


「ジュナさん、無理を承知でお願いします。アリージュに会わせてください」


 煙管がカンと盆の縁に打ち付けられた音が響いた。床に敷かれた豪奢な絨毯の編み目を見つめながら、僕はジュナさんの返答を待つ。頭の上から小さな溜息が聞こえてきた。


「アナタがアリージュを贔屓ひいきにしてくれていることは知ってるわ。そしてあの子も、多分アナタのことを客として見ていない」


 しゃら、と布ずれの音がして、僕の肩にそっと手が添えられた。体を起こすと、目の前には目尻に涙をためたジュナさんの顔があった。


「もうあの子に関わらないでほしい。その気持ちを、アナタの中でそっと終わらせてほしいの。想い人と一緒になるなんて、私たちにとっては叶わぬ夢なんだから」


 ジュナさんは僕の前にひざまずき、そっと僕のことを抱きしめた。部屋に入ってきたときとは違い、ジュナさんの腕は柔らかく僕の体を包みこむ。夜の砂漠のように、冷たい肌の奥にじんわりとした温かさを秘めていた。僕は目を閉じる。


 このままジュナさんの体温に溶けていったなら、僕はまたこの街で今までと同じように暮らしていくだろう。ナセルの家で年々数が減っていくザマの世話をしながら、たまにキャラバンに出る。ブルジャーワシおじさんが、いつまで経っても独り身の僕を気遣ってたまに女性を紹介してくれるだろう。でも僕はきっと誰とも一緒になることはなく年老い、いつかは砂にかえる。そうして生きていくのが、当たり前だと思っていた。

 でも。


 僕は目を開き、ジュナさんの華奢な体を引き離した。僕は手に力を込め、ジュナさんをまっすぐに見つめる。ジュナさんの切れ長の目から、ひとしずく涙がこぼれた。


「夢にはさせません」


 その言葉を聞き、ジュナさんは何かに気づいたように目を見開いた。


「アナタ、もしかして……」


 僕はひとつ頷く。窓から差し込む月明かりと部屋に据え付けられたランプの灯りが混じり合い、ジュナさんの頬に複雑な模様を描いていた。


「アリージュを夜の世界から連れ出して、太陽の下で一緒に生きていきたい。僕は今日、その言葉をアリージュに伝えに来たんです」

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