24 珍しいお客さま
それから三日が経っても、僕は彼女に何も言い出すことができずにいた。昼間の仕事で少し疲れていたが、今日も足は自然と煙亭に向かっていた。今日こそはアリージュに、僕が考えていることを伝えよう。家を出るときはそう勇んでいるのに、煙亭に向かう道の角を曲がる度に、その決意は砂漠に持ち帰った植物のようにしおれていくのだった。
毎日同じ時間に同じ道を歩いていると、僕が知らない時間や場所でも生活している人がいることを改めて思い知った。いつも曲がり角の近くですれ違うおばさんがいるし、井戸の近くの家からは小さな子どもの泣き声が聞こえる。わかっていたことなのに、それは僕にとって新しい発見だった。僕の生活は変化が激しい。家で日々淡々とした生活を営んでいることもあれば、
ゆるやかな風で看板が揺れる煙亭の前に立ち、僕は深呼吸した。もう一度自分を奮い立たせてから、木がささくれたドアに手をかけた。
乾いたベルの音に反応した客は数えるほどしかいなかった。この時間であればいつも八割方埋まっているのに、今日は空席が目立つ。座っている客も会話を楽しんだり酒を味わったりしているというよりも、机の上にある杯をただ静かに空けようとしているだけに見えた。カウンターの奥には店長がいたけれども、水に濡れた杯を布で拭きながら僕を
「今日もお願いします」
濃紫のドレスをまとったタミユさんは珍しく商売人の顔ではなかった。細い眉尻は吊り上がり、眉間に深い皺が寄せられていた。たじろいだ僕の表情を見た瞬間、彼女の頬の筋肉が無理やり笑顔をつくったようだ。
「本日はどの娘にされますか?」
「え?」
彼女から不意に尋ねられた問いに僕は即座に答えられず、沈黙がふたりの間に居座った。本来ならばこの質問には何も違和感がない。しかしながら、今までは僕が何も言わずともアリージュの部屋に連れて行ってくれていたのに、今日に限ってなぜ聞かれたのだろう? アリージュの他にいないじゃないですか、と笑うこともできず、僕は胸元から小銭入れを取り出す。
「アリージュをお願いします。二時間で」
「当然のことですが」と心の中で付け加えながら、一万二千ディズを握りしめた拳をタミユさんに差し出した。彼女はそれを受け取らないまま、頭を下げた。
「あいにく今日はアリージュをご指名いただけません」
「指名できない?」
なぜ、と問おうとする前に、タミユさんはまた笑顔を貼り付けて口角をつり上げた。
「はい。誠に恐れ入りますが他の娘をご指名いただくか、明日以降にまたお越しください」
「なぜ指名できないんですか? 昨日まで普通に指名できてたじゃないですか」
「お答えしかねます。恐れ入りますが、アリージュは明日以降のご指名でお願いいたします」
まったくもって感情のこもっていない声色に、僕はそれ以上追及することができなかった。いや、おそらく問い詰めても、笑顔を崩さず同じ答えを返されるだけだと悟っただけであった。
昨夜もアリージュと二階の部屋で話したが、今日は会えないなどとは言っていなかった。彼女は僕に「また来てね」とは絶対に言わないが、今夜会えない事情があるなら前もって伝えてくれるはずだ。それがなかったということは、きっと昨日僕が煙亭を出てから今日来るまでに、何らかのトラブルが発生したのかもしれない。僕は少し考えてから、背筋を伸ばしたまま僕の返答を待つタミユさんに問いかける。
「今からジュナさんはお願いできますか? 同じように、二時間で」
タミユさんの眉がぴくっと動いたのを、僕は見逃さなかった。アリージュに何かあったのなら、一座においてアリージュの姉貴分であるジュナさんは、おそらくその理由を知っているだろう。何があったのか聞けるかもしれない。
「ジュナであれば空いております。今からですと、一時間半でしたらお過ごしいただけます」
タミユさんの表情からは感情が読めないが、「金を払ってくれるのならいいだろう」といったところだろうか。価格を尋ねると、アリージュよりも少し高い値段が設定されていた。小銭入れに入っているお金でなんとか足りたので、僕は言われた金額をそのまま差し出す。タミユさんはそれを両手で受け取り、胸元にしまった袋に大事そうに入れた。
「ご案内いたします」
いつもと同じように、タミユさんの後ろについて階段を上っていく。そのとき、一階で酒を飲んでいる男たちからは、ひそひそと何かを話し合っている声が聞こえた。僕の方を見ている人が多いが、気にせずそのまま階段を静かにあがっていった。
蒸し暑い廊下を抜け、案内された扉の前に立つ。以前アリージュの部屋に初めて訪れたときに、ジュナさんに強引に引き入れられた部屋だった。タミユさんがノックすると、中から「はい」とけだるげな声が漏れてくる。タミユさんが一階へ階段を下りていったのを見届けてから、僕は扉を開けて部屋に踏み入れた。
「あら、珍しいお客さまね」
部屋の造りはアリージュの部屋と大差なかったが、置かれている調度品はすべて違うものだった。アリージュの部屋は赤などの暖かみのある色が多い印象だったが、ジュナさんの部屋は紺の落ち着いた色が基調になっている。ベッドの上に皺なく敷かれた寝布や、ソファに置かれたクッション、壁に掛けられた風景画などの色が絶妙に混ざり合うことで、気だるげなジュナさんの色香が醸し出されていた。
ベッドに腰掛けていたジュナさんは僕の方へ寄ってくるやいなや、僕の首に花の茎のように細い腕を絡めてきた。僕はすぐにその腕を外してから、ジュナさんの目をまっすぐに見つめて話を切り出した。
「アリージュのこと、何か知りませんか?」
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