23 絵空事

 それからというもの、朝から昼まではカリーラ家で仕事をし、夕食を食べてから煙亭に向かう日々が続いた。


 ザマの管理仕事は、まだ朝焼けが砂の色を朱く染める前から始まる。朝方だけ吹く冷たい風に身をすくめながら、僕はカリーラ家の敷地のザマ小屋側の入り口から入り、他の使用人たちに挨拶をしてからその足で物置に向かう。薄暗い物置の中で一番手前にあるかめを取りだし、背負ってまた敷地から出ていく。近くの井戸へ水を汲みに行くためだ。敷地を出ると言っても、カリーラ家の門からすぐ近くの所に大きな井戸があって、それほど苦労はない。数十頭のザマの飲み水を確保するために、朝陽が上るまで僕は井戸とザマ小屋を行ったり来たりする。終わる頃にはすっかり太陽は眠りから覚めていて、地面を白い光で照らしている。額の汗を拭っていると、飼育長から「新入り!」と声がかかる。次は餌箱に飼料を撒いていく仕事だ。息をついている暇はない。ザマに直接触れるような重要な仕事は飼育歴が長い使用人が行うため、僕が担当する仕事は雑用全般になった。自分が生きていくためだけでなく、誰かとともに生きていくために仕事をするのは初めてだった。


 ナセルの家で働き始めて五日ほど経った頃、小屋の隅に積まれた木材に座って休んでいると、背後から低くかすれた声が降ってきた。


「新入り。餌やりは終わったか」


 声の主は飼育長のハギラさんだった。何か怒られることをしただろうかと逡巡していると、日に焼けた太い腕でザマの胃袋でできた水筒を渡された。僕より身長がかなり高く、体の分厚さも違う。そこそこ大きい家畜であるザマを扱うための筋肉が備わっている、という体つきの彼の左手の煙草からは、独特の香りがする煙がくゆりながら立ちのぼっている。


「水飲んどけ。最近暑くなったから、倒れるぞ」

「あ……ありがとう、ございます」


 受け取り、栓を抜いて勢いよく水を飲む。水は喉を通って、胃から水が全身に染み渡っていった。ハギラさんは僕の隣にやおら腰掛けて、ザマ小屋の方を向いたまま煙草を吸っている。


「仕事は覚えたか?」

「はい、元々キャラバンタですから、一通りは」


 水筒に栓をしてそう返事をしたが、その次が続かなかった。休憩を切り上げて作業に戻るべきか、ハギラさんに何か話をふったほうがいいのか。アリージュと話すときは何も迷わないのに、他の人と話すのはまだ緊張する。


「助かったよ、来てくれて。若いのが立て続けに止めちまってな。ここで長年ザマの世話をしていた奴も、親が最近亡くなったから王都の方に移り住むんだと」


 ハギラさんの口から、ぷかぷかと煙が吐き出され僕の目の前に漂ってきた。むせそうになるのを我慢しながら、彼の言葉をじっと隣で聞いていた。


「またキャラバンから戻ったら、ここで働けよ。ナセル様にも俺から言っておくからよ。おまえがいると、助かる。考えておいてくれ」


 短くなった煙草の先を地面に押しつけて火を消してから、ハギラさんは立ち上がって尻の砂を払った。僕も慌てて立ち上がると、肩をぽんと叩かれた。何か言おうとしたけれど、その間にもハギラさんは大股で小屋の方に戻り、他の使用人に指示を出し始めていた。仕事をしていてそんなふうに声をかけられたのは初めてだった。こんな僕でも、この街で必要とされることはあったのか。肩には、分厚いハギラさんの手の感触が残っていた。



 夜。先週まで乾ききっていた空気は少しずつ湿り気を帯びるようになり、窓が閉められた廊下は蒸し暑い。相変わらず段差は暗さの中に息を潜めているものの、僕はその階段に慣れつつあった。軋む音に、ぼおっと浮かぶタミユさんのドレスのすそ。何も言葉を交わすことなく、僕はタミユさんの後に続き、アリージュが待つ部屋の扉の前まで歩いていく。夜十時から二時間。タミユさんには何も言わずとも、一万二千ディズのお金を渡せばアリージュの扉の前まで案内してくれるようになった。僕が誰でもいいから女性を買いたいわけではなく、アリージュとの時間を金で買いに来ているのは明らかだったからだろう。一階の酒場の声が床下から足裏に伝わってくる。じんわりと汗をかきながら扉のドアの前に立つと、タミユさんは早々と来た道を引き返していった。僕は暗闇に彼女の後ろ姿が消えてから、扉をノックする。中から返事があったのを確認してから、ドアを開ける。


「いらっしゃい」


 アリージュはソファから立ち上がって僕を迎えてくれた。今日は翡翠のような淡い緑の服を身につけている。昼間外で会っていたときの服とは違い、踊り子の衣装のように肩や腹が露わになっている。違うのは、揺れるような飾りがついておらず、細かな刺繍で埋め尽くされていることだ。正直目のやり場に困るが、意識して目を反らす。と、目の前に水で絞られた布が差し出された。


「外、暑くなったね。 顔、拭くといいわ」


 僕は御礼を言ってからそれを受け取り、素直に顔を拭った。火照った肌に水を含んだ柔らかな感触が気持ちいい。拭った後、頬をそよ風が撫でていく。窓の前にかけられた薄い陽よけ布が、吹きこんでくる風でふわりと膨らんだ。


「窓開いてると気持ちいいね」

「いつもは閉めてるんだけど、今日は暑いからね。あら? 手、怪我してる。大丈夫?」

「ザマの餌をやっているときに、近くの柱にぶつけて赤くなってるだけだよ」


 そんなどうでもいい話をしながら、僕たちはソファに腰掛けて話をする。アリージュは僕から布を受け取り、代わりに酒瓶と杯をテーブルに置く。二人で軽くお酒を飲みながら、僕らはただ話をして過ごす。話題はもっぱら、今まで訪れたことのある街の話だった。


「サルファは海に行ったことある?」

「話を聞いたことがあるくらいだなあ。池よりも広く水が溜まってるんだろ? あと、海の水は塩が混じってるとも聞いた」


 酒の隣に、アリージュは水を注いだ杯も置いてくれた。慣れた手つきを見て、僕は杯に残った酒を一気にあおる。


「私は行ったことあるわ。池とは比べものにならないくらい広いのよ。向こう岸が見えないくらい!」


 彼女は子どものように両腕を目一杯広げた。酒のせいもありつややかな頬が少し紅潮しているが、陽の光を受けてゆらめく水のように目を輝かせている。彼女のそんな目を見つめていると、僕の不安に駆られた心の風がたちまち凪いでいくのだった。


「夜の海は静かで、黒くて、少し怖いの。風も少し湿っていて、びゅんびゅん吹いてくる。でもね、夜空に浮かぶ星が水面に落ちんじゃないかと思うくらい、水面がキラキラと光るのよ。あそこに足を浸したら、きっととても気持ちいいわ」


 僕がこの街以外で知っているのは、今までキャラバンで寄ったことのある交易都市くらいだ。そういう場所はアリージュも何回か行ったことがあり、「あの街の名物が美味しかった」だの、「あの遺跡は今まで見た建物の中で一番大きかった」だの、共通の話題で話せることもある。彼女は興業で僕よりも多くの都市へ訪れたことがあるため、僕が知らないことも楽しそうに話してくれる。でも彼女の話に出てくる街は、いつだって夜の風景だ。夜の海、夜の森、夜の石畳、夜の地平線。指を折って訪れたことのある都市を数える彼女を見て、僕は彼女にそれらの街の昼の姿を見せてあげたい、と思わずにはいられなかった。


「アリージュ、あのさ、」

「なあに?」


 意を決して切り出すものの、僕はいつもそこで黙り込んでしまう。彼女は首をかしげて、僕の言葉を待ってくれている。


 思えばすべて、僕が望んでいるだけのことなのだ。彼女を夜の世界から解放できたら。太陽の光をたくさん浴びながら、人が多く行き交う街を歩けたら。海という水たまりに、心ゆくまで足を浸すことができたなら。そして、太陽の下で笑う彼女の隣に僕が居ることができたなら。

 でも、彼女はそれを望まないかもしれない。彼女の踊りは熱情的で、繊細で、激しくて、細やかで。指一本、髪の毛一束にも熱がこもっているような感覚を覚える、彼女の踊り。観客の心を一瞬で掴むほどのチカラを持っているのに、僕は彼女からそれを奪っていいのか。僕にそれができるのか。

 「ふたりでこの街を出て、一緒に生きていこう」と言えるのか。

 そんな考えがぐるぐると頭を駆け巡り、


「いや、何でもない」


と嘘をついて酒を飲むことしかできないのだ。彼女は「そっか」とだけ言って、空いた杯に酒を注いでくれる。そのまま二人とも黙っていると、またアリージュが違う街のことを話し出す。


 あと十日ほどで、アリージュはこの街を去り、僕はキャラバンでこの街を出る。その前に、アリージュに話をしなくてはいけない。彼女は何と応えてくれるのだろうか。僕の言葉に、彼女は笑ってくれるのだろうか。

 「それは地位もお金も何も持たないおまえの絵空事だ」とアリージュに拒否されるのが怖くて、僕は今日も彼女に何も言えないまま、一夜は過ぎていくのだった。

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