22 砂漠に輝く三日月

 その夜、僕は街へ繰り出した。風はうっすら感じるほどの熱気をのせており、季節の変わり目にさしかかったことを告げている。昼過ぎにカリーラ家の屋敷を出てから、僕は家の用事をひとつずつ片付けた。不足していた物資を調達したり家を掃除したりしていたら、すっかり窓の外が暗くなっていた。僕は簡単な夕食をすませて家を出た。歩いているだけで、背中が汗ばんでいく。道の砂に足をとられながら、広場まで寄り道をせず向かった。今夜街に出たのは、昼間通りかかった広場で貼り紙を見かけたからだ。舞台に出演する踊り子たちの中に、アリージュの名前があった。


 さすがにキャラバン帰還のカーニヴァルが一週間以上も続けば、帰還日直後よりも広場にいる人はまばらだった。あちらこちらから聞こえきた笑い声や話し声は息を潜めており、店から肉を焼く音や皿を洗う音などが耳に届いてくる。屋台前のテーブルについている人も、静かに杯に酒をついでゆっくりと舌を潤しているようだ。

 僕は弱めの乳酒にゅうしゅを屋台で買ってから、開いている席についた。外気よりも気温が低い地下蔵で冷やされた乳酒は、火照った体にちょうど良かった。甘い舌触りの液体を飲み込むと、喉の中で細かく冷たい泡がはじける。僕がキャラバンに初めて参加したとき、気遣った大人たちが乳酒を飲ませてくれた。冷やされてもいない、むしろ温まった乳酒を飲んだとき、あまりの苦さに僕は顔をしかめた。その顔を周りの大人に笑われたから、よく覚えている。今ではこんなに甘く感じるようになったのか、と心の中で独りごちた。

 ちびちびと酒をなめていると、徐々に人が集まってきた。みんな好き好きに陣取りながら、飲み食いしながら舞台の方に視線を走らせている。僕が座る隣のテーブルから、しわがれた声が聞こえてきた。盗み見ながら、僕はその会話に耳を傾ける。


「カーニヴァルはいいな。砂風で乾くこの街が活気づく」


 壮年の髭を蓄えた男性と頭が禿げ上がった男性二人が、舞台を見ながら酒を酌み交わしているようだ。すでに酔っ払っているのか、禿げ頭が赤く染まっている。髭の男性はにやつきながら、骨付き肉を八重歯にひっかけてむしり食べている。


「それにしても、今回の一座はアタリだな。踊り子が若く瑞々しい。乙女の汗は砂を潤すというからな」


 キヒヒ、と笑った拍子に肉の欠片が髭を蓄えた口の端からこぼれおちた。禿げ頭の男性はそれを意に介することなく、次の酒を瓶から注いでいる。思ったより注ぎすぎたのか、杯に唇で迎えに行くように酒をすすってから応える。


「ああ。俺は別の街でもマーシャル座の興業を見たが、どの踊り子も肌が白輝石はっきせきのように白い。聞いた話によると、昼は極力外に出さず、夜は舞台とベッドで過ごすそうだ。陽の光を知らず、カーニヴァルの熱気と人の肌しか知らない。なんとも哀れで魅力的な乙女たちだ」


 ガハハ、と二人揃って笑ったところで、小さく太鼓の音が聞こえてきた。その合図で、観衆はざわめきながら舞台の方に体を向ける。右からも左からも拍手が沸き起こり、僕もそれにつられて両手を控えめに叩いた。


 踊り子が一人ずつ、ゆっくりと舞いながら舞台に姿を現す。ある踊り子は観客に向かって手を伸ばし、ある者は自分の肩を抱き、ある者は舞台に倒れる。それぞれの個性なのか表現したいものが異なるのか、皆振り付けが違っていた。観客はすでにの踊り子がいるのか、彼女たちが舞台に躍り出てくるたびに小さく歓声が漏れ出てくる。僕は酒を飲んで興味がないフリをしながら、アリージュを探した。

 舞台の端から、小さな爪先が覗いた。足首についた金色の飾りが揺れる。観客は一瞬息を飲み静かになったかと思いきや、登場と同時に拍手が沸き起こった。黒髪に、くねるように揺らされる腰巻き。扇情的な太鼓の音に合わせて、アリージュが姿を現した。たいまつの火に照らされて、顔に影ができては、長い睫毛が光り輝くのを繰り返している。舞台の端で他の踊り子に隠れてはいるものの、アリージュの体の動きすべてが、燃え尽きない火のように僕の目に焼き付く。 


 アリージュが踊る姿を見て、僕は目が離せなくなった。こんな気持ちになるのはいつぶりなんだろう。以前彼女の踊りを見たときは、心臓に火がついたように熱を感じた。今は、まるで風が止んだ砂漠のようだ。誰も足を踏み入れていない風紋ができた砂漠が僕の心の中に広がっていた。昼の朱と夜の闇の間のひととき、一人その砂漠で踊るアリージュは綺麗だろうなと思った。陽に照らされた砂にアリージュの足跡がついて、腰に巻いた布が風でなびく。彼女が踊り終わった後、僕が彼女の手をとって、砂漠を二人で歩けたら。そのときに、僕は独りでなくなるのかもしれない。そんな馬鹿なことを思いながら、彼女の伸びる指先を見つめていた。


 観客がわあっと声をあげた。踊り子たちはその顔に汗をきらめかせながら、笑顔でポーズを決めていた。肩で息をしながら、目一杯笑顔を貼り付けていた。

 僕はそこまで見届けて、乳酒を最後まで煽ってから席を立った。隣の席の二人は、拍手をしたり酒をなめたりしながら、耳打ちしていた。指で舞台に立つ踊り子を指しながら、下品に口端をゆがめている。その指がアリージュを指していないことを祈りながら、僕は急いでそのテーブルを離れた。

 アリージュに顔だけでも見せられないかと、人の間隙をすりぬけながら舞台に近づいた。途中、観客の振り上げられた手が頭に当たりつつも、なんとかアリージュが立つ舞台の上座側まで辿り着いた。

 たいまつやランプの火が多く焚かれていて、舞台上は眩しかった。僕は必死に手で顔を覆って影をつくりながら、彼女の姿を探す。揺れる黒髪が見えた。彼女の方に向かって、僕は右手を挙げる。気づかなくてもいい。でも、気づいてくれたら。


 一瞬、こちらを見た彼女の唇が弧を描いたような気がした。それはまるで静かな砂漠を照らす三日月のようだった。眩しく彼女の顔には影が落ちていたし、僕の見間違いかもしれない。踊り子たちは、順に舞台の端にはけていった。ちらほらと拍手も鳴り止み、また観客はざわめき始める。熱気と、焼けた肉の香ばしい匂いが広場に立ちこめる中、僕は誰もいなくなった舞台をしばらく見つめて立ち尽くしていた。

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