20 でも。
タミユさんは暗い廊下の中、僕の方を振り返る。
「お楽しみいただけましたか?」
彼女の朱く彩られた唇から紡がれたその言葉に、僕は返事をしなかった。タミユさんもそれ以上は僕たちのことを詮索せず、廊下を階段の方へ引き返していく。僕はその後ろに付き従い、二人が静かに歩く音だけが響く。
あともう少しで階段、といったところだった。突然左側のドアが勢いよく開き、あと少しで僕にぶつかるところだった。部屋の灯りが急に廊下に差し込んだ眩しさに、僕は思わず腕で目を覆う。途端、部屋の中へ腕を掴まれ引っ張り込まれた。タミユさんの「あっ」という声が聞こえたが、ドアはすぐさま閉められ、施錠された音が聞こえた。暗がりから急に明るい部屋に連れ込まれたために、目がなかなか慣れていかなかった。
「ジュナ……さん?」
僕は部屋に引き込まれた後、壁に背を押しつけられていた。揺れる長い金髪に隠れ、ジュナさんの切れ長の目がこちらをうかがっている。僕より少し背の低い彼女は、一座の中でアリージュの「姉」と言われる存在だ。砂嵐の夜、隠れて僕にアリージュの伝言を伝えてくれた人だった。
「あら。私の名前、覚えててくれたのね。でも、伝言は忘れちゃったのかしら?」
あのときと同じ笑顔に見えたが、どこか冷え切ったような瞳だった。そばにあるドアからは、ノックの音が絶えず響いている。タミユさんの「開けなさい、ジュナ!」という声も聞こえる。しかしジュナさんは、それを無視して僕の逃げ道を塞ぐように壁に手をついていた。僕はジュナさんの問いに正直に答えようとした。
「覚えていました。アリージュに『もう会えない』と言われ、ずいぶん悩みました。でも僕がお金を払えば、アリージュに会おうと何をしようと座長も文句はないでしょう。だって僕は客なんだから」
「それがあの子を傷つけるって、わかって言ってるの?」
それまでの優しい口調とは違い、少しジュナさんの声が低まった。僕はその勢いに圧倒され、口をつぐんだ。彼女はそのまま続ける。
「アリージュは、あなたに会いに行くときすごく良い表情をしていたの。でもあなたが客に成り下がるのなら、あの子は二度とあの笑顔にはなれないのよ?」
ジュナさんは息を荒くしてそう捲し立てた。ジュナさんはなんだか苦しそうだった。美しい服を着飾り化粧もしているのに、砂嵐に取り残された孤児のような表情をしていた。寄る辺がないような手つきで、僕の胸ぐらを掴む。
「そうです。僕には何もできやしない。でもお金を払ってでも、僕はアリージュに会いたいんです」
「これ以上あの子を苦しめないで。これほど惨めなことってないわ。最後に泣くのはあの子なの」
「それはアリージュが決めることです」
反射的にジュナさんにそう言い返した。ジュナさんは何も言わない。部屋には外から扉を叩く音だけが響いていた。僕もそれ以上、何も言えずに胸ぐらを掴むままにされていた。
僕がアリージュに「また来る」と約束したとき、彼女は「ありがとう」とも「また来てね」とも、「待ってる」とも言わなかった。ただ静かに微笑んだだけだ。彼女は、僕とは決して約束を交わさなかった。友人ではない、“客”としての僕とはもう会いたくないということなのだろうか? どんな手段を取っても、ふたりで同じ時間を過ごしたいと思うのは僕の独りよがりなのかもしれない。
でも。
「アリージュが、『サルファと話がしたい』って言ってくれたんです。僕はその言葉を信じます。客だとか、そんなことは僕にとってどうでもいいんです。二人ともが同じ時間を過ごしたいと思っているのに、何をためらうことがあるんですか?」
僕はジュナさんに語りかけるのではなく、自分の中で整理するように独りごちた。そう、何をためらうことがある? 僕の胸ぐらを掴むジュナさんの手を優しく外した。彼女は抵抗することなく、手を下ろした。
「あの子は幸せ者ね。私には手に入らなかったものを持ってる」
ジュナさんは睫毛を伏せてそうこぼした。僕がどういうことか尋ねようとする前に、彼女は力なく鍵を開けて扉を開けた。タミユさんが血相を変えて部屋に飛び込んできた。
「ジュナ! あなた何やってるの!」
タミユさんは顔を真っ赤にして、ジュナさんに駆け寄り右手を振りかぶる。ジュナさんは目を瞑り、衝撃に備えて体を強ばらせたのが見えた。僕は慌ててタミユさんの右手を掴む。肩で息をしているタミユさんの目は、怒りに満ちていた。その目を見て僕は、タミユさんは踊り子の味方ではないことを悟った。タミユさんは落ち着いたのか、僕の手を振り払い、ジュナさんを睨みつける。物事が思い通りにならない子どものようだった。ジュナさんは息を長く吐いた。
「お客様の相手をしてただけです。ね?」
ジュナさんはこちらを振り向いて同意を求める。先ほどまでのジュナさんとは違い、初めて会ったときと同じくつかみ所のないけだるげな表情に戻っていた。ジュナさんの切れ長の目が、「ここはこういう所なのよ」とでも言っているかのようだった。僕は衣服の乱れを整いながら、適当に頷いた。
ジュナさんの部屋を後にして階段を降りた。料金は前払いだったため、階段から降りたところでタミユさんは「またのお越しを」とだけ言って、頭を下げたまま動かなかった。僕は何も言わず、煙亭から出て大通りを歩いた。
通りには誰もおらず、夜が深まった分、月が輝いて見えた。月の周りに光の輪ができているのは、風もなく空気が澄んでいる証拠だ。少し冷静になってきた。僕は自分の汚れた靴を見ながら歩いて考えた。
やっぱり、あの一座の環境はひどいものだ。アリージュもジュナさんも、おそらく踊り子のほとんどが不自由な生活を送っているのだろう。その一座は、長くてあと二週間滞在するはずだ。そして僕が次のキャラバンに参加するとなると、あと十日から二週間ほどでこの街からしばらく離れることになる。僕らに残された時間はあと十日。長くても二週間だ。その間に、僕にできることは、僕がしたいことはなんだろうか。
今までの日常で、こんなことを考えることはなかった。自分のために、自分が同じ時間を過ごしたい人のために、何ができるかを考える日が来るなんて。僕は月明かりでできた自分の影を見つめながら、帰り道を独り歩いていった。
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