19 約束する

「……本当に?」


 彼女は冷たい手をしていた。握りしめた僕の手を額に当て、何か懺悔するような姿勢になって僕に問う。僕は彼女の手を、しっかりと握り返した。


「本当だ。僕にもあの時間は大切だったんだ。お金を払ってアリージュと話せるんなら、僕が出せる限りいくらでも払うよ。僕自身がそうしたいと思うんだ」


 彼女は紅が差された頬に伝う涙を、隠そうとしなかった。僕の手を握る彼女の両手にもう一方の手を添える。まるでふたりで神様に祈っているかのようだった。


「ごめんね、サルファ。砂嵐の夜、私のことを助けてくれたのに、私はあなたを突き放すような伝言をジュナ姉さんに伝えてしまったの」


 彼女のか細い声が、静かな空間に染み渡っていく。彼女の顔は僕からは見えないけれど、手の熱が僕に伝わってきた。彼女は続ける。


「私、怖かった。親に捨てられて、一座に捨てられて、会う人みんなが私に失望して、私から離れていくのを。そんな恐ろしい思いをするくらいなら、最初から人に近づかずに離れておけばいいと思ってた」


 アリージュは手を額から離し、僕の方を見た。すがるような瞳をしていた。


「だって、そうでしょう? 私には、待ってくれる人も、必要としてくれる人もいないの。座長は私のことを商品だと思ってるから、優しく接してくれる。タミユさんもそう。自分のことを養ってくれた一座への恩返しだと思って、私のことを大切に扱ってくれるだけ……」


 そんなことないよ、と反射的に声をかけそうになったけれど、口をつぐんだ。砂嵐の夜、アリージュへの座長の態度を見れば、彼女の言うことはあながち間違いではないのだろう。彼女は鳥籠とりかごの中にいる美しい小鳥なのだ。彼女はその羽ばたきで人々を魅了し、誰かに買われて行くのを待っているしかできない。彼女は彼女で、一座という籠の中で独りの戦いを強いられていたのだ。僕は彼女のそんな一面に共鳴していたのかもしれない。彼女の細くて柔らかな手は震え、肩から細かな刺繍が施された羽織がずり落ちた。白い均整のとれた肩が露わになった。


「私の周りは私を商品として見ている人か、私を知ろうとしない人だけだった。でもサルファは、私のことを商品としてではなく、人として知ろうとしてくれた気がしたの。それが本当に本当に嬉しかった」

「……泣かないで、アリージュ」


 アリージュの白い頬に、一筋の涙が宝石のように伝う。もったいなくて、僕は思わず手を服で拭いてから、指ですくって受け止めた。彼女はそれを見て、ふふ、と笑った。


「何か可笑しかった?」

「ううん。涙をぬぐう前に手を拭いてくれているところが、サルファらしいなと思っただけ」


 アリージュは握りしめたままだった僕の片方の手を離し、僕に向かって微笑みかけた。その笑顔は客に向けられる愛想のある表情でも、踊りきった達成感からくる表情でもなかった。あの四方を壁で囲まれてふたりで話していた、あのときのアリージュの笑顔だった。僕はそこでやっと安心した。


「ごめん、立ったままだったね。座って。あの場所とは違うけど、私も、サルファと話したい」


 アリージュはふっくらとしたソファに腰を下ろし、僕に座るよう促した。まるで、最初に井戸の近くのベンチで座って話したときと同じように。風もないし、暗いし、火で焚かれた香木の香りがする。僕はアリージュの隣に自然と腰かけた。石の硬さではなく、綿の柔らかさを太ももに感じる。あのときとは何もかも変わってしまった。でも確実に、僕たちの距離も変わっていた。

 そこから僕たちは、水を飲むのも忘れて話し合った。いつぶりだろう。酒を飲まずに人と言葉を交わし合うのは。酒を飲んで寂しさをごまかすのではなく、独り寝静まって夜をやり過ごすのではなく、誰かと言葉を交わして過ごす夜が、こんなにも愛おしく思えたのは。


「今日は星が綺麗ね。ねえ、この街のマハブ神話にまつわる星座はどんなものがあるの?」

「キャラバンに行ったとき、何か驚いたことはある? 私はずっと前に旅をしていたとき、“滝”というものを見たことがあるのよ。大量の水が山の崖から落ちてくるの。音もすごいし、肌も震えるわ。何より驚いたのは、水粒が細かくなって顔に当たることよ」


 仕事の話も、お互いの家族の話もしない。僕たちはただお互いの話をした。お互いが何を見、何を感じ、何を思ったか。それだけで十分だったし、それ以外のことは語る必要がなかった。僕は久しぶりに、頬が痛くなるくらい話したし、笑った。アリージュのことをひとつ知れば、僕のことをひとつ教える。僕がアリージュのことを聞けば、それに応えたアリージュがまた僕に質問を投げかけてくる。そうして、僕らは一つひとつ、お互いの関係性を積み上げていった。


 そんな時間は、ノックの音で終わりを告げた。乾いた音に、僕たちはともにドアに視線を向ける。「はい」と返事したアリージュの声は、日照りが続いた日の砂のように乾いていた。彼女はソファから立ち上がり、ドアを少しだけ開けた。隙間からは、見覚えのある蒼のドレスの裾が見えた。タミユさんだろう。アリージュはタミユさんと一言二言言葉を交わして、ドアを閉めた。僕の方に向き直ったアリージュは、何も言わずに目を伏せた。


「今日は行くよ」


 アリージュが話し始めるまでに、僕は立ち上がった。彼女は驚きと悔しさを混ぜた表情をしていた。僕と話していたこの時間が、僕のお金で買われたものだということにショックを受けているように見えた。彼女は自分が金を支払う側ではなく支払われる側なのだから、僕になんと声をかけていいのかわからないのだろう。


「ごめん。今日は」

「ううん。私こそ……」


 気まずい雰囲気が流れた。お金で繋がる必要などないのに、お金でしか繋がれないこの関係が歯がゆかった。でも、僕たちはどうすることもできないことを、お互いがわかっている。

 僕はアリージュのほうに、手のひらを上にして右手を差し出した。アリージュはそれに気付き、右手を僕の手に添えるように置く。僕がその手を優しく握りしめると、彼女はそれ以上の力でぎゅっと握り返してくれた。アリージュは、言葉にならない僕の思いをわかってくれただろうか。わからないけれど、無理に言葉で伝える必要もないと思った。


「また来るよ」


 彼女は眉を寄せて、今にも泣き出しそうな顔をしている。僕は彼女に笑いかけた。安心させたかったからだ。


「約束する。無理はしない。でも、必ずまた来るから、一緒に話そう」


 僕は気づいてしまったのだ。独りの夜は寂しいものだったことを。考えないようにしていたけれど、本当は誰かと夜を過ごしたかったのだということを。自分をさらけ出しても受け止めてくれる誰かを、僕は待っていたのだ。情けないけれど、アリージュが教えてくれたことだった。

 いよいよ去ろうとしたとき、アリージュが「ちょっと待って」と僕を呼び止めた。アリージュは部屋の隅にあった金の細工がしてある箪笥たんすの一番上を開いて、小さな箱を取り出す。僕の方に戻ってくると、それを僕の手に握らせた。手のひらにおさまるくらいの、赤い革が張られた小さな箱だった。


「これは?」

「困ったときに使って」


 彼女がそう告げたとき、またノックの音が響いた。そろそろ時間切れということであろう。箱の中身がわからぬまま、僕は慌ててそれを胸元にしまう。


「サルファ様、お時間ですが」


 しびれを切らしたのか、タミユさんが部屋に一歩足を踏み入れてきた。僕は「すみません」と返事をしてから、アリージュに向き直る。


「じゃあ、また」


 アリージュは返事をせず、ひとつ頷いただけだった。僕も頷き返し、タミユさんが手を添えて開けてくれているドアから出て行った。背中にアリージュの視線を感じたような気がしたけれど、否応なくドアは少し軋んだ音を立ててから閉まった。

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