18 嫌だったんだ。きっと。

 開いた扉の隙間から、ぼんやりとした橙色の灯りが漏れ出た。背後のタミユさんは音もなく廊下の先へと消えていく。部屋に一歩踏み入れば、豪奢な絨毯が敷き詰められており、中央には柔らかそうな綿が詰められた二人がけのソファがある。テーブルにはシンプルな水瓶と、杯がふたつ置かれている。しかしその空間の中でも異質なのは、部屋の大きさに見合わない大きなベッドだった。部屋の奥には締め切られた窓があり、ちょうど月が窓枠から顔を出している。その月をまっすぐに見つめ、ベッドに腰掛けている華奢な後ろ姿があった。

 僕は扉を後ろ手に閉めた後、その場に立ち尽くしていた。アリージュと話がしたい。その一心で二階まで上がったものの、彼女に何と話しかければいいのか。僕は彼女と何を話したかったのか。僕にもわからなかった。アリージュは月を見つめたまま、こちらを振り向かない。きっとタミユさんから、今日の客は僕だと事前に聞かされているだろう。普通の客であれば、振り向いて挨拶のひとつくらいするはずだ。お互い声をかけることもなく、時間だけが過ぎていく。

 とてつもなく長く感じる沈黙を破ったのはアリージュだった。


「どうして来たの?」


 こちらを見もせず突き放すような言い方する彼女に、僕は心がずきんと痛んだ。体じゅうから少しずつ熱が奪われていくようだ。僕は拳を握りしめる。砂嵐の夜のジュナさんの伝言は、アリージュの本心だったのかもしれない。僕だけが、彼女とまた会いたいと思っていただけなのかもしれない。ただ、ここで勇気を出して言葉にならない気持ちをなんとか伝えなければ、もう本当に二度とアリージュと会えないだろう。でも、なんと声をかければいいのだろう。僕の心の奥底には、確かに何かが居座っているのに、それが何なのかわからない。言葉を探したけれど、僕にもわからなかった。


「僕にもよくわからない。けど……」

「けど?」


 素直にそう答えると同時に、アリージュはこちらを振り向いた。さらさらと髪が肩からこぼれていく。アリージュの目尻はしっかりと紅で彩られていた。黒い瞳はまんまるとして僕をまっすぐに見つめている。いつもと違う雰囲気に、僕は思わず唾を飲み込んだ。慌てて、アリージュへの返事を探す。


「アリージュともうこれで最後なのは、嫌だったんだ。きっと」

「それだけ?」


 予想だにしていなかった答えだったのか、彼女は拍子抜けしたような声を出した。僕は静かにこくんと頷いた。それを見た彼女は背中を丸めて震えだした。泣き出してしまったのだろうか。僕は申し訳なくなってアリージュに手を伸ばそうとする。


「ふふふ……あははは!」


 うつむいたアリージュから声が聞こえたかと思うと、アリージュは大きな声を出して笑い始めた。僕は突然のことでわからず、伸ばした手はそのまま宙で居場所を失ってしまった。アリージュはひとしきり笑い終わると、ベッドの脇を通って僕の方に歩み寄ってきた。


「ひとつ、聞いてもいい?」


 息も絶え絶えに、アリージュはそう切り出した。僕はもう一度アリージュに向かって頷く。


「ジュナ姉さんから伝言を聞いた? 私、もう会えないって言ったのよ」


 砂嵐の夜。一座の中でアリージュの姉とも言えるジュナさんは、熱を出していたアリージュの代わりに、二階をこっそり抜け出してアリージュからの『もう会えない』という伝言を耳打ちしてくれた。僕はそう告げられたあのときから、アリージュに会いたいという思いが少しずつ心臓の奥で育ててしまっていたのかもしれない。そう思った。


「アリージュが『もう会えない』と言った理由を確かめたかった。そのために、もう一度だけでもいいから会いたかったんだ。それが、アリージュの本心なのかな、と思ってた」


 テーブルに片手を置いてしだれかかるアリージュに、僕も歩み寄る。手を伸ばせば触れられるくらいの近さだ。芳しい香りが僕の鼻まで届いた。それはまったりとした香木のような、高級感を演出するための香りだ。彼女自身が好む香りではなく、「二階の香り」なのだろうと思った。アリージュの目は僕を射抜くようにまっすぐに見つめている。その瞳の中を覗き込んでみたいと、そう思わせる目だ。僕は目を反らすまいと意地になっていた。 


「アリージュが本当に僕と話したくないなら、もう帰るよ。でも、僕のことを考えて『会いたくない』と言ったんなら、それは聞けない。僕は、あの時間……ふたりで古い家に囲まれて話すあの時間が、とても好きだったから」


 こういうとき、僕は自分の気持ちを伝えることがいかに下手なのかを思い知らされる。描いた絵を、うまく言葉で言い表せないのと同じだ。僕がなぜそのような線を引き、なぜそのような色を塗ったのかがわからない。アリージュだって、まともに話したのは数えるほどしかない。それなのに、僕は彼女に会って話がしたいと思う。情熱的に踊る彼女の真剣な表情、屈託のない笑顔、時折見せる哀しい瞳。おそらく、それ以上にもっと知りたいのだ、彼女のことを。


 僕は彼女を見つめ続けることができず、思わず足下に視線を落とした。豪奢な絨毯の上で、僕はボロボロの汚れた靴を履いていた。その分不相応さに、僕は情けなささえ感じた。彼女は舞いで多くの人を魅了し、こんな豪奢な部屋で夜を過ごす人間なのだ。砂にまみれてなんとか生きている僕とは、やっぱり違う人間なのかもしれない。拳を握ると、細かな砂の感触がした。


 そっと、僕の手に触れる柔らかさがあった。アリージュが、両手で僕の右拳を包み込んでいた。彼女は、僕の拳を大事そうに握りしめていた。

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