17 二階

 もう人通りもない道を、一人で歩いていく。ナセルを担いでいたときは足下ばかりを見ていて気づかなかったが、今夜は満月だった。上を仰げば銀色に光る月が、遠目に見える街の外の砂丘を淡く照らしている。あの夜も、月明かりが綺麗だった。キャラバンから帰ったあの日、広場でアリージュと出会った。月の光に照らされながら、さらさらと砂のように肩から流れ落ちるアリージュの黒髪が思い出された。

 僕はどこかで、アリージュのことを考えないようにしていた。もう忘れたかったのだ。アリージュと出会ってからどこか自分が自分らしくないような気がするし、何より、アリージュとは立場が違う。僕は廃れた街の一介のキャラバンに参加する者――キャラバンタでしかない。対して彼女は、多くの人を魅了しながらも、鳥籠とりかごから出られない踊り子。一緒にいること自体、おかしい二人なのだ。あの三日間、同じ時間を共有できたことが奇跡でありえないこと。僕の日常は、井戸で水を汲み、キャラバンがあればキャラバンに参加し、この街で独り、生きていくこと。

 ――本当にそうなのか?

 僕は、道の分岐点に立ち尽くしていた。左に曲がれば、家まで続く道。一方、右に曲がれば、その先には煙亭がある。今の時間に行っても、もう一階は店じまいのはずだ。でも二階は……。

 僕は服の前衣から袋を取りだし、手持ちの硬貨を数えた。先日はナセルにおごってもらったから今日は自分が払おうと、多めに持ってきていた。硬貨を握りしめると、手のひらに汗をかいていることに気づいた。

 アリージュに会って、話がしたい。何度考えても、その答えしか出なかった。会って話をする、それだけなのに、なんで周りからいろいろ言われなきゃいけないんだ。アリージュは本当にもう僕に会いたくないのだろうか? 「もう会わない」といったアリージュの言葉は結局ジュナさんからの伝言であって、本当かどうかわからない。アリージュに会って、本人の口から聞きたい。本人からはっきりと会わないと言われれば、僕はきっと、今度こそ日常に戻れる。

 僕は勢いに任せ、道の分岐を足早に右に曲がった。


 煙亭はこれまで訪ねたときとは異なり、灯りはなく、ひっそりとしていた。表の扉には「閉店」の札がかかっていて、店の中をうかがい知ることはできない。勢いのまま店まで来たものの、どうすればいいのかわからず、僕は店の前をうろうろしていた。誰か出てこないか、扉を叩いてみようか、などと考えていた。

 そんなとき、路地から扉の開く音が聞こえた。僕は慌てて、その路地を覗き込む。そこにいたのは、幾本もの酒瓶が入った木箱を抱えた店長だった。僕を一瞥いちべつしてから、木箱を扉の横に置いた。


「今日はもう店じまいだ」

「一階は、ですよね?」


 僕のその言葉に店長が驚いた表情を浮かべたと思いきや、分厚い唇の端がつりあがった。店長の声色が変わった。


「ということは、今日は二階ってことですかい? 旦那ァ」


 ずいぶんと年上の店長に“旦那”と呼ばれて、僕は居心地の悪さを感じた。からかわれているのが明白だからだ。しかし、怖じ気づいて引き下がることはできない。「ちょっと待っててくだせえ」と店長は扉の向こうに消えた。そのまま扉の前で待っていると、現れたのは、褐色の肌に蒼色のドレスをまとい、白髪交じりの髪を綺麗に結い上げた女性――タミユさんだった。


「ごきげんよう、サルファ様。本日は何用で?」


 美しい所作だが、一方で隙がない。こちらを見定めるようにじっと見つめている。心臓が早鐘を打っているが、僕は開き直り、タミユさんに告げる。


「二階を利用したいです」


 タミユさんの切れ長の目が少し見開かれた、と思った途端、タミユさんは弾かれたように笑い始めた。手で口を隠しつつ上品に笑ってはいるが、馬鹿にされたようで僕は顔が熱くなるのを感じた。彼女は笑い終わり、先ほどの厳しい表情ではなく、商売人の顔になっていた。


「てっきり、アリージュにてこでも会わせろとおっしゃるのかと思いましたわ。二階をご利用されるお客様であるのなら、私どもが拒む理由はどこにもございません。ご指名はございますか?」

「……アリージュを」


 タミユさんは勝手口から僕を表の通りに案内した。いつも一階の酒場を利用するときに入る扉ではなく、その横の扉が開けられる。そこには、二階へとつながる階段が続いていた。タミユさんは僕に向かって、階段を進むようにと頭を下げて手で指し示した。


「すみません、二階に上がる前にお聞きしたいんですけど」

「はい、何なりと」

「僕は二階の相場を知りません。いくらでアリージュの時間を買えますか?」


 こういう店を利用したことがない僕は、手持ちで足りるのかを確認しておきたかった。一介の若僧である僕がこんな店にツケておくことなどできるはずがないし、金が払えなくなるのは避けたかった。一時の恥のほうがマシだ。事前に訪ねたことで、タミユさんは僕のことをに金をきちんと支払う気がある客として見てくれたのか、丁寧な口調で僕の問いに答えてくれた。


「およそ一時間で六千ディズになります」


 六千ディズもあれば、無駄遣いしなければ僕が一週間ほど生活できる金額だ。今日の手持ちでは、二時間いるのが限界だろう。


「二時間だけ、お願いします」

「かしこまりました。どうぞ、二階へ。暗いので足下にお気をつけください」


 タミユさんは僕を導くように、ゆっくりと階段を上っていった。階段には等間隔に小さなランプが据えられているだけだ。慣れた足どりで上っていくタミユさんの後ろを、僕もゆっくりとついていく。階段の途中には踊り場があり、別のところから伸びてきている階段と合流していた。きっと、一階の酒場からも上がれるようになっているのだろう。

 階段を上がりきったところで、目の前にある小部屋に通された。中には誰もいない。そこには椅子が三脚ほど置かれているだけで、階段と同じように暗かった。僕はそのうちのひとつに腰を下ろし、静かに待っていた。

 アリージュは僕と会ってくれるだろうか。金を払ってまで会いに来た僕に幻滅するだろうか。時間が過ぎていくほど、不安になった。でもそれより、アリージュに会えることが嬉しく思っている自分がいた。

 扉がノックされる。


「旦那様、お待たせしました。こちらへ」


 タミユさんが静かな口調で僕を呼ぶ。僕が立ち上がると、タミユさんは二階の廊下をゆっくりと進んでいく。僕は静かに、その後ろを歩いた。途中、右側の扉から、女性の吐息混じりの声が漏れ出てきた。僕の体が一瞬で強ばる。二階はこういうところだと知って、あえて来たのだ。もうアリージュに会わずに帰ることなどできない。僕は暗い廊下を進んでいく。


「こちらです」


 タミユさんが、ある扉の前で足を止めた。タミユさんは細い腕で扉をノックした後、一歩引き下がって頭を下げた。


「ではごゆっくり」


 そう言われた後、タミユさんはもう何も言わなかった。「部屋に入ってもよい」ということなのだろう。僕は深呼吸をし、汗ばむ手で扉のノブを回した。

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