16 愚痴

「なァ、サルファはどう思う? この街を」


 三本目の酒瓶が開けられた直後、頬を赤くしたナセルが突然聞いてきた。僕はいつもより酒が進んでいたが、胃を満たしてきたのが良かったのか、飲んでいる量にしては酔っていない。逆にナセルは僕よりも早く酔いが回っているようで、いつもは快活な口調が粘っこくなっている。昼も仕事をしていたようだし、疲れていたのだろう。急に投げかけられた問いに、僕はとっさに答えを返すことができない。


「なんだよ。急に」

「俺はさァ、もうダメなんじゃないかと思ってる……」


 ナセルの声は小さく、周囲の人々の話し声に掻き消されそうになった。一瞬、ナセルの言葉の意味がわからず、彼を見返す。聞き間違えだと思い、僕は努めて明るく「何言ってんだよ」と返した。ナセルの目は少し充血して座っているが、その奥に潜んでいる光は真剣だった。


「この街は人に優しくない。それでも人が住みここまで栄えたのは、行路の上にあったからだろ? 俺の先祖がこの街に流れ着いてザマを飼いはじめたのも、当時は需要があって儲かったからだ。でも今のこの街を見てみろよ。北に行路ができて、みるみるうちにキャラバンは減った。今じゃァ、全盛期の半分だ。参加している人間の年齢層も年々あがってる。若い世代は危険なキャラバンなんかよりも、もっと儲かる職を求めて街を出て行く。子どもも育てにくいし、ずいぶん子どもの数が減った。何か大きな手を打つでもなく、ただただすたれていくしかない。いつしか、この街は砂に飲み込まれる……」


 静かに淡々とナセルが語るのを聞いていた。僕は膝の上で、拳をぎゅっと握りしめていた。

 今ナセルが話したことは、きっとこの街の人間なら、薄々感じていることだ。口にはしないが、心の片隅で思っている。この街はもうダメだ。なのに気づかないフリをして日常を過ごしている。水をくみ上げ、その日だけを生きている。僕はこの街でそうやって生き続けることができるのだろうか? あと何十年も?


「親父たちの世代はいいさ。一握りの砂のような蓄えを消費して、『あの頃は良かったな』って酒を飲んで、死んでいくだけだからなァ。でも俺たちは? 働き、誰かと一緒になって、子を産み、育てて、また世代を繋いでいかなくちゃならない。それがこの街でできると思うかァ? サルファよォ」


 ナセルの目には哀しみの色が浮かんでいた。ナセルは青年団の団長を務めている。若者をとりまとめ、この街を盛り上げていく役割だ。街の若者と話し合う中で、彼は彼なりに感じるところがあり、悩んでいるのだろう。ナセルは僕に問いかけているのではなく、自分に問うているのかもしれない。ナセルが納得のいくような答えを、ナセルよりも年下で頭も悪い僕が出せるわけがない。ふたりとも黙ったまま、時間だけが過ぎていく。ナセルはさらに独りごちるように続ける。


「今度のキャラバンで、ザマを何頭か売りに出す」

「ザマを? ザマは……ザマは、カリーラ家の、この街の大事なものじゃないか」

「そうさ。その“大事なもの”を売りに出さないと、ウチもやっていけないってコトだ。慈善事業じゃない。問題ないさ、最近のキャラバンではザマが全頭借り出されることも少なくなったしなァ……」


 ナセルは杯に残った酒を飲み干してから、酒瓶に手を伸ばした。が、その手は空を切る。僕はナセルから酒瓶を取り上げ、家から持ってきた水筒から水を杯に注いでやる。ナセルは酒瓶を取り返すこともなく、大人しく水を飲んだ。


「悪かった、サルファ。こんな話をしたかったんじゃァないんだ。すまん……」

「疲れてるんだよ。今日はもう家に帰った方がいい。送ってくからさ」


 ナセルはとうとう机に突っ伏して目を閉じてしまった。口からは聞き取れない言葉が漏れ出している。顔色は血色がいいので気持ち悪くはなさそうだが、もう酒を飲むどころではない。酒瓶の残りはまだ飲み続けている隣のテーブルに譲り、ナセルに肩を貸して広場を後にした。最近誰かを送ってばかりだ、と思いながら、重いナセルをなんとか支えながらカリーラ家の屋敷への道を歩いていく。

 ナセルの腕を掴むと、傷だらけの手が目についた。ザマの世話は大変な仕事だ。朝早くから夜遅くまで、ナセルの家族や家の使用人は働いている。ザマの子が生まれるとなると、夜通しザマのそばについて出産を手伝うこともある。そんなに手塩をかけて育てたザマを手放すというのは、どれほど辛いことなのだろう。おそらく昼間出会ったときに話していた契約で、ザマを売る交渉もしてきたはずだ。家族にやるせない気持ちを吐露することもできないから、ちょうど会った僕を誘ったのだろう。ナセルは強い人間だと思っていた。でもそれは僕の勘違いだった。人間、誰でも人に言えない弱い部分があるのかもしれない。

 カリーラ家は名家なので、この街の人間なら誰でも場所を知っている。僕よりも背の高いナセルを背負って歩くのはひどく疲れる。油断しては一緒に倒れてしまいそうになるが、いつも僕のことを気にかけてくれているナセルを、助けたかった。汗が頬を伝い、背中には服がへばりついた。ぽつぽつと人が歩いている通りを、地面を見つめながら一歩ずつ進んでいく。あと少しでカリーラ家、というところだった。


「ナセル様!」


 ナセルを呼ぶ声が聞こえた。顔を上げると、昼間、ナセルの供をしていた使用人が小走りにこちらに向かってくるのが見える。浅黒く筋肉質で、ナセルよりも背の高い恵まれた体格の使用人は、うなだれるナセルを見てうろたえた。


「ナセル様! 大丈夫ですか?」

「疲れているうえに酒を飲み過ぎたのか、広場で寝てしまって……」


 僕が汗まみれでナセルを背負っているのを見て、使用人はすぐに僕に代わってナセルの肩をひょいと支えてくれた。僕はやっと一息ついて腰を伸ばすと、使用人が僕の顔を見て気づいた。


「あ、あなたは昼間の……」

「はい。サルファと言います」


 ナセルは仕事のときは使用人を連れ歩くこともあるが、基本的に単独行動だ。僕もこうして挨拶をしたことはなかった。


「私はカリーラ家使用人のアズファンと言います。広場からここまで連れてきてくださったのですか。ナセル様がなかなか戻ってこられないので、そこら中を探し回っていたところでした」


 使用人――アズファンさんは、ナセルが見つかってほっと胸をなでおろした、そんな表情をしている。アズファンさんも、少し頬が上気している。本当に歩き回ってナセルの姿を探していたのだろう。そんなアズファンさんの心配も知らず、ナセルは「ううん」とうめき声を漏らす。


「サルファ様のお気遣いに感謝します。ナセル様もこの状態ですし、御礼は改めて。では、失礼いたします」


 アズファンさんは年少の僕にも丁寧に頭を下げてくれ、カリーラ家の方向に向かって歩き出した。大きな体躯たいくでバランスを崩すことなく歩いていく後ろ姿を見て、僕はきびすを返した。とりあえず、ナセルが家に帰れてよかった。そう思いながら、今来た道を引き返していった。

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