第2章 踊るように

14 次のキャラバン

 乾いた風が頬を撫でていく。少し汗ばんでいる肌には心地いい。遠くに目をこらすと、地平線がゆらめいて見えた。季節が変わりつつある印だった。


「サルファ。昼メシにしよう」


 ブルジャーワシおじさんが家の間口から顔を出して声をかけてくれた。おじさんの家の軒下でヒラバを挽いていた僕は、石臼を止め、溝に詰まった粉を刷毛で払う。布の上に集めた粉を壺の中に入れ、両手で担ぎ上げる。


「今行きます」


 額ににじむ汗を腕で拭ってから、僕は声を張り上げて返事をした。

 今日は手伝いとしてブルジャーワシおじさんの家に来ていた。正直、誰かと一緒に過ごす気分ではなかったが、「アマモも顔を見たがっているから」とおばさんの名前を出されては、なかなか断りづらかった。もちろん、ここ数日昼も夜も街中に顔を出していない僕を気遣っての誘いだということはわかっていた。

 僕はヒラバの粉の入った重たい壺を、よく使い込まれた台所の近くに運んだ。


「おかげで助かったよ。ありがとう、サルファ」

「このぐらい、いつでも」


 アマモおばさんは目尻に皺を寄せて僕に感謝する。おばさんの顔には皺が増えた。背もこんなに低かっただろうか。ブルジャーワシおじさんがキャラバンに出る回数が減ったのは、おばさんが腰を痛めているからだと風の噂で聞いていた。おばさんはおぼつかない足どりで食卓に食事を並べようとしている。おばさんに座っているように声をかけ、僕が三人分の食事を運んだ。煮物、焼き物、スープ、ヒラバのパン。甘味まであり、昼食にしては豪華だ。僕が腹を空かせて来ると思い、いつもより多めに用意してくれたのだろう。三人が座ったところで、ブルジャーワシおじさんが目を瞑り、マハブ神に祈りを捧げる。年長者であるおじさん、おばさんの順にスープに手をつけた後で、僕も肉の串に手を伸ばした。「さあ、腹一杯食べろ」とおじさんが僕の背中を優しく叩いた。

 アマモおばさんの食事は美味しい。僕も同じような食材を使って同じように料理しているはずなのに、どこか味が違う。それは長年の経験の差なのか、自分のために作る食事ではなく誰かのために作る食事だからなのか。僕にはわからなかったが、僕のために作られた食事を味わって食べることにした。

 ブルジャーワシおじさんは野菜で包んだ肉を飲み込んでから、僕に声をかける。


「最近どうだ? 砂嵐の日から街中で見かけなかったから、どうしたのかと思っていたぞ」


 僕は匙でスープをすくい上げようとした手を止めて答える。


「ああ、あの日は飲み歩いてて、油断してたら砂嵐に遭ってしまって。次の日から熱が出てしまって、寝込んでたんですよ」


 アリージュに「会えない」と言われたあの夜の砂嵐は長く続いた。僕は寝ようと目を瞑るのだがなぜか眠れず、明け方までずっと起きていた。煙亭の人々がまだ寝静まっていた頃、板戸を叩いていた砂の音がしなくなったのを見計らい、体を起こした。僕は寝布を畳み、その上にいくつかの銅貨を置いた。マーシャル座の座長が置いていった机の上の銀貨は、触れることなくそのままにしておいた。音を立てないようにゆっくり板戸を外し、煙亭を出た。紫色の空の下、風は依然として吹いていたが、砂を巻き上げないくらい緩やかな冷たい風だった。

 家に帰った後、僕は本当に熱を出して寝込んだ。熱を出したのなんて、久しぶりだった。父さんと母さんが死んでからは「頼れるのは自分しかいない」と思い、体調にはことさら気をつけていた。さすがにキャラバンから帰って三日間、出歩きすぎたし、いろいろなことがありすぎた。おじさんとおばさんにはアリージュの話はしなかったが、嘘ではなかった。


「そうなの。大変だったねえ、サルファ。辛かったら頼ってくれて良いんだからね」

「そうだそうだ。俺たちはおまえの親代わりみたいなもんだ。まだ子どもなんだし、何か困ったことがあればいつでも言うんだぞ」

「ありがとうございます」


 二人とも僕に優しい言葉をかけてくれる。それに僕は上手く応えられないまま、肉を頬張った。ブルジャーワシおじさんはそれ以上追及してくることはなかった。


「そういえば、サルファは次のキャラバンも参加するのか?」

「決まったんですか? 次の旅程」

「ああ。パパーラヴァが言ってたぞ。ザマの準備を始めるそうだ」


 パパーラヴァさんはナセルの父親で、この街のザマの管理を一挙に任されているカリーラ家の家長だ。キャラバン隊を組んだり旅程を決めたりするのは国や街から依頼を受けた荷運び屋だが、その荷運び屋はカリーラ家からザマを借りることになるため、キャラバンに関する情報はほぼすべてカリーラ家に集まってくると言っていい。おじさんは長年キャラバンに熱心に参加していたから、同世代のパパーラヴァさんとは旧知の仲のはずだ。僕も、二人がよく街中のベンチでモリンザナをやっているのをよく見る。盤上で、赤色と青色が塗られたザマの歯を交互に動かして陣地をより多くとりあう遊びであるモリンザナは、酒と食事以外の唯一の娯楽なのだ。


「ということは、十日から二週間後に出発ですね」

「そんなもんだろうな。多分あと一、二日くらいで参加者の募集があるだろう。参加するんなら、パパーラヴァに先に言っておくぞ」


 僕はこの四年間、ほぼ欠かさずキャラバンに参加していた。自分の扶持ぶちを稼ぐためではあったが、それだけではない。家にいても変わらない日常を過ごすだけだとわかっていたからだ。家で独りで過ごす時間は嫌いではないが、退屈だった。それなら多少危険だとわかっていても、いろんな街に出て、この街にないものを見たかった。そうすれば、僕の中の何かが変わると、心の中で思っていたのだ。この街がすべてではないと思いたかったのかもしれない。

 今回もいつものように、キャラバンに参加すればいい。おじさんに言えばパパーラヴァさんに伝えてくれて、キャラバンの編成を組む際に優先的に参加できるよう取り計らってくれるだろう。しかし僕の返事を拒むように、何かが喉につかえている。


「ちょっと考えます」


 僕の口から、やっと言葉が出た。いつもなら迷わず参加するのに珍しく保留した僕をブルジャーワシおじさんはじっと見つめてくる。僕はなぜか焦ってしまい、言い訳を続ける。


「珍しく体調崩したし、疲れてるのかもしれないですし」

「そうだな。おまえも頑張りすぎかもしれん。おまえのことだから多少蓄えはあるだろうし、一回くらい休んだって大丈夫さ」


 はい、とだけ返事をして、また食事に戻った。

 アリージュに初めて会ったときから、今日でちょうど一週間が経っている。次のキャラバンに参加すると、遅くとも二週間後までには出発になる。


『私、あと三週間くらいこの街にいるの』


 アリージュは初めて会った翌日、そう言っていた。次のキャラバンに参加してこの街を出発すれば、同じ時期にアリージュもこの街を去り、二度と会えないだろう。

 僕は目の前のスープに映る自分の顔を見て、そんなことを考えていた。

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