12 姉と妹

 ジ、と何かが燃える音が耳に届いた。途端、ぱっと瞼の裏側が明るくなるのを感じた。僕が眩しさで目を薄らに開けると、そこには人影があった。


「しぃっ、静かにして」


 その言葉と一緒に、人差し指が僕の唇に当てられる。反射的にその指を払うと、僕の顔にランプが寄せられる。アリージュや僕よりももう少し年上なのか、少しけだるげな雰囲気の女性がいた。ゆるやかな曲線を帯びた長い金髪が、はらはらと細身の肩からこぼれていく。金髪の隙間から、好奇心が溢れる切れ長の目でこちらをうかがっている。僕のすぐ背後には壁があって後ずさることができず、ランプの火の眩しさから逃れようと手で光を遮った。


「アナタ、この街の人?」


 見知らぬ僕に怖じ気づく様子もなく近づき、問うてくる。羽織がはだけて、白い肩周りが露わになっていた。僕は顔を背けながらうなずく。


「私、ジュナっていうの。お兄さん、名前は?」


 花の蜜のように甘ったるい声だった。彼女は先ほど払いのけた手を、もう一度僕の頬に這わせてくる。じっとりとしたその動きに、僕の背中周りがざわついた。「サルファ」とだけ答えると、その薄い唇を尖らせて「ふうん」と笑う。


「ねえ、私とも遊ばない?」

「遊ぶ?」

「はぐらかしちゃって。アリージュと遊んでたの、アナタでしょ?」 


 逃げられない僕に四つん這いで迫ってくる彼女は、オモチャを見つけたような顔をしている。血のように赤く塗られた唇が、三日月のように弧を描いている。彼女はゆっくりとゆっくりと、僕を壁際に押しつけるように追い詰めてくる。


「今日はお店が開いてなくて、つまんなくって。私の部屋に来ない?」

「ちょっと、待って……」


 彼女の吐息が僕の鼻にかかる。僕はかたく目を瞑って顔を背けた。

 短い時間だったようだが、僕には十分長い時間に感じた。目を閉じたままじっとしていると、彼女が僕の膝小僧に置いている手が震えだした。目を開けると、彼女は肩をふるわせて笑っていた。


「ふふふ……嘘よ、嘘。焦っちゃって、カワイイ」


 彼女は髪を掻き上げて、僕の頬をつついた。爪には唇と同じ色が艶めいている。子ども扱いされたことにむっとした僕は、目の前でニヤニヤする彼女を睨みつけた。


「怒らないでよ。せっかくアリージュからの伝言を伝えに来たのに」

「アリージュの?」


 ジュナと名乗った女性は僕の上から退き、中央の机からはみ出していた椅子を引き寄せて座った。机に頬杖をついて、僕の様子をじっと見つめている。


「アリージュは私の妹だから。サルファに伝えて、って頼まれたの」

「え?」


 今日の昼頃、アリージュと話していたときには「親に売られた」と言っていたはずなだ。それに、ジュナさんの目の色は薄暗くてよくわからないが、髪は金色だ。黒髪で黒い瞳のアリージュとは似ても似つかない。


「アリージュは小さい頃にこの一座に買われたはずじゃ……」

「あら。知ってるのね」


 肩からしだれ落ちる髪を無造作に掻き上げ、ジュナさんは揺れるランプの火をだるそうに見つめる。


「妹って言っても、それは一座の中での話よ。マーシャル座は寄せ集めの女の世界だからね。座に入ると、ひとり『姉』があてがわれるの。姉は妹と部屋を共にして、踊り子としての生き方を教える。喧嘩もするけど、悩んでいるときにはその背中をさすってやる。姉と妹の関係は、座を離れるときまで続くの。アリージュは、私の可愛い可愛い『妹』ってわけ」


 おそらく他の人に気づかれぬよう声を潜めているはずなのに、ジュナさんの話は心地よく耳に入ってくる。井戸に一滴落ちた水滴のように、まっすぐで澄んだ音がする。僕は彼女の語るままに任せ、聞いていた。彼女も僕に言葉を求めているふうではなく、ランプが放つ弱い光に語りかけているようだった。


「数日前から、アリージュが昼間に外に出ていることは知っていたわ。部屋にいないんだもの、当然よ。気持ちはわかる。夜だけ外に出ても空気が冷たいばかりで、何も癒やされはしないもの」


 そこで彼女は視線だけをこちらに向けた。先ほどまでの妖しい表情ではなく、妹のことを大事に思う姉の表情だった。


「ここ数日、あの子の機嫌が良いのよ。理由を聞いても笑うだけ。外に出て気が紛れるならいいと思ってた。でも今夜は砂嵐が起こって、帰ってこなかった。心配したわ。もしかしたらあの子、死んじゃうんじゃないかって」


 ジ、とランプの油が燃える音が響く。遠くで人の笑い声がした。こちらにジュナさんが来ていることは知られていないようだった。


「そうしてたら、アナタがアリージュのことを連れて帰ってきた。アリージュは、アナタと昼間会ってたんでしょう?」


 この人の話が本当であれば、アリージュと会っていたことを隠す必要はないだろうと思った。僕はためらいながらも、ひとつ静かにうなずいた。ジュナさんは「やっぱり」とだけ言って、またランプの光に髪の毛がきらめいた。


「でもここ二日のことですよ。今日だって話してただけで」

「アナタ、何も知らないのね。それが私たちにとってどれだけ貴重な時間なのか」

「……どういうことですか?」


 彼女は椅子から立ち上がり、また僕のすぐ隣にひざまずく。今度はジュナさんから視線を背けなかった。彼女の赤い唇から漏れ出る声は低い。


「座長も言ってたでしょう? 私たちは『商品』なの。踊りで男を興奮させて、酒で酔わせ、ここの二階で春をひさぐ。意味、わかる?」


 僕はぐっと口をつぐむ。そんなことは知っている。アリージュたちがただの踊り子なのではないことも。二階で行われる行為も。 


「だから、私たちは昼間は街を出歩かない。いつも出会える存在になったら、『商品』としての価値が下がるでしょ? 男は私たちにとって友人にも恋人にも家族にもならない、生きていくためのお金と一緒の存在よ」


 彼女は僕の目をまっすぐに見る。彼女の瞳は水晶のように美しい緑色をしていた。男の僕を脅すわけでも蔑むわけでもない。ただ事実を言っている、という雰囲気が瞳から伝わってきた。僕は何も言えなかった。


「アリージュから伝言。『もう会えない』って」


 彼女は僕の右手をしなやかな動作で取った。その手はとても優しくて、彼女たちが言う“金”を扱っているようには見えなかった。彼女の手は熱く、何かを祈っているような表情だった。


「私、もう行くわ。アリージュ、少し熱が出ているの。看病しなくちゃ」


 彼女は僕からするりと手を離し、羽根がはえた鳥のようにふわりと立ち上がってランプを手に取った。扉に近づいたところで、ジュナさんが一瞬僕の方を振り返る。その唇が少し動いたような気がしたが、そのまま何も言わずに部屋を出て行った。部屋はまた暗闇に包まれた。

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