11 商品
「もしかして……なら、……くれる……」
僕の傍らでアリージュが何か叫んでいる。口を開いたときに砂を吸い込んだのか、激しく咳き込んだ。
「なんだって?」
僕が聞き返すと、アリージュは僕の肩をぐいと引き寄せ、耳に唇を寄せる。
「裏口なら、誰か気づいてくれるかも」
アリージュは煙亭の正面から見て右側を指差した。隣の店との間、人ひとりが通れそうなくらいの細さの路地がある。背後からアリージュを支えながらふたりでゆっくり体をひきずるように路地を抜け、表の華やかさとは違う、裏口の薄暗い扉を叩く。
「アリージュです。どなたかいらっしゃいませんか」
アリージュがかすれた声で叫び、僕が扉を強く拳で叩いた。耳を扉に当てると、中で人の声がする。板戸を外す音がし、扉の錠が外された。風圧で押された扉が、重々しく少しだけ開く。中から光が漏れたと同時に、人の右腕が外に出てきた。「中へ入れ」と言っているようだ。
僕はアリージュを先に中に入れ、押し込むようにして自分も入った。僕の背後で勢いよく扉がしまり、錠が閉められ板戸が嵌められる。僕とアリージュは二人してむせていた。むせるたびに、降り積もった砂が部屋に舞う。
昨日ナセルと飲んでいた客が入れるフロアとは異なり、一見事務所のような部屋だった。向かって左の壁には書類が整理されている棚があり、反対側には机がある。このあたりでは見かけない木で作られており、机上には書類が無造作に重ねられている。中央には丸いテーブルがあり、それを囲むように種類がバラバラの椅子があった。他にも細々と物が置かれているようだが、目がかすんでぼんやりとしかわからなかった。僕らを引き入れてくれた使用人らしき人が、奥に「旦那様。アリージュです」と叫んでいるのが聞こえる。
「アリージュ、どこで何やってたんだ?」
部屋の奥の扉から入ってきた男性は、いきなりアリージュを叱責した。アリージュの舞台を見たとき、最初の挨拶をしていた男性だ。襟のついた異国の衣装に包まれていた恰幅のよい体は、少々くたびれた部屋着に包まれており、たるんで見える。髭も舞台に立っていたときほど整えられておらず、大きな毛の流れから一房はみ出していた。アリージュの目の前に立ちはだかり、言葉を浴びせ続ける。
「一人で出歩くなといつも言っているだろう! こんな街を出歩いておもしろいこともなかろうに」
アリージュは何も言わず、僕が渡した砂まみれの布をほどいて咳をした。うつむいているのでその表情はうかがえないが、庭で楽しそうに話していた彼女や躍動感の塊のように踊っていた彼女とは違い、背中が悲しそうに丸められている。
「だいたい、男と歩いている姿を客に見られたらどうする。自分の立場をわきまえなさい。買い物はタミユか使用人に任せればいい。今日だって砂嵐に巻き込まれていたらもう踊れなくなっていたかもしれんのだぞ」
「それよりも、アリージュの湯浴みと着替えを。早く休んだ方がいい」
まずは彼女を心配したり労ったりするのが先ではないかと思い、口を挟んだ。男はそこでやっと僕の存在に気づいた、とでも言いたげな顔をして僕の方に視線を向ける。足下から身なり、最後は顔。“睨みつけている”といってもいい目をして、眉間にしわが寄せられている。
「アリージュを連れてきてくれたことには礼を言う。だが、アリージュはマーシャル座にとって大事な『商品』だ。なぜ君がアリージュを連れてきてくれたのかは聞かないが、二度とアリージュと関わらないでくれ」
「アリージュが砂嵐に巻き込まれてうずくまっているところにたまたま通りすがっただけです」
彼女の立場が悪くならないように嘘をついたが、僕への疑いの眼差しが変わることはなかった。男は胸元から小袋を出す。その中から銀貨をとりだし、中央のテーブルの上に叩きつけるように置いた。
「これはアリージュを連れて帰ってきてくれた礼と口止め料だ。砂嵐がおさまるまではこの部屋にいていい。おさまったら即刻帰ることだ。おい、タミユ!」
男は上着を翻し、部屋の奥に向かって叫んだ。階段から誰かが降りてくる音がする。現れたのはタミユさんだった。心配そうな顔で砂まみれのアリージュに駆け寄ってくる。
「アリージュ。よかった、無事で……」
「アリージュの砂を洗い流して部屋で寝かせておけ。今日は休ませろ。明日からはいつもどおり働いてもらう」
タミユさんは僕の姿を捉えたが、何も言わなかった。力なく立ち尽くすアリージュの肩を抱き、「さあ、行きましょう」とだけ言ってアリージュを奥に連れて行った。彼女の目は一度僕の方を見たが、タミユさんに連れて行かれるままだった。それを見送った後、男が僕に向き直る。
「この部屋から奥は関係者以外立ち入り禁止だ。あとで使用人に寝布と食事だけもってこさせよう」
そう吐き捨ててから、その男は近くの使用人に指示を出して部屋の奥へと消えていった。僕は机の上で鈍く光る銀貨を恨めしく一瞥してから、勝手口の扉近くの段差に荷物を置いた。あの銀貨には一指たりとも触らないと決めた。
しばらくしてから使用人が水と寝布と穀物パンを持ってきた。御礼を言う僕に何も返答することなく、まるで感情のない人形のように奥に引っ込んでいった。ジジジジ、とランプの火が燃えている部屋で、僕一人だけになった。
飲み水用に杯に入れられた水を少し布に染みこませ、顔や髪を拭った。細かな砂で布はみるみるうちに薄茶色に染まる。スッキリとまではいかないが、幾分かマシだった。代わりに張り詰めていた気持ちがほどけ、どっと疲れが体を襲ってきた。
砂嵐の中で動くのは、思った以上に体力を消耗する。強風に対して踏ん張り続けなければいけないし、視界不良で移動は困難を極める。呼吸も十分にできず、長時間砂嵐にさらされると体力がなくなって動けなくなってしまう。今回はアリージュもいたし、それほど距離が離れていなかったので無理をしてでも煙亭へ連れて帰ろうとしたが、もう少し遠かったらと思うとゾッとする。衣服についた砂を土間で払い、重い体を壁に預けて、勝手口近くの段差に腰掛けた。
板戸がガタガタと揺れていて、振動や音が部屋に響き渡る。今日は煙亭も臨時休業だろう。外の風の音と、二階に響く足音と話し声が聞こえるだけだ。倦怠感が強く、逆に眠りにつくことができなさそうだ。ただただ目を閉じて、時間が過ぎるのを待っていた。
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