10 砂嵐

 どのくらいの時間そうしていただろうか。一昨日出会ったばかりなのに、なぜか隣には清廉な空気があるだけのように、僕は安心しきっていた。こんなの、何年ぶりだろうか。風と、遠くの喧噪と、ときどき小動物が走る音と、隣に人がいる安心感がある。この空間は誰にも邪魔されない、僕とアリージュだけの空間だからだろうか。僕はアリージュが隣にいるか、何度も何度も横目で確かめた。彼女は僕の視線に気づかないままなこともあれば、気づくこともあった。気づいたときは、彼女は僕の眼を見て微笑んでから、また空や家の壁に眼を向ける。それを繰り返すだけなのに、僕はなんだか満たされていた。 少し風が強くなってきた。アリージュはなびく黒髪を掻き上げた。


「そろそろ帰らなくちゃなあ」


 アリージュは独り言のようにそう呟いた。立ち上がり、スカートの後ろを手で払う。


「もう行く?」

「今日は夜に舞台がないから、練習があるの」


 そうなんだ、と言って、その次の言葉が出てこなかった。

 僕はきっと、約束が苦手なのだ。「明日も会える?」と聞くのが怖い。「明日も会おう」と言われて、会えないのが辛い。「もう会えない」と言われるのも苦しい。僕はどの道を行くにしても、それを自分で選ぶことから逃げることしかできないのだ。

 うつむく僕の顔に影が落ちる。アリージュが僕の顔をのぞき込んでいる。僕はこんなに情けない顔を見られたくなくて、顔を背けた。


「顔、青いね。今日はよく眠ってね」


 アリージュの手がそっと僕の額に触れた。この砂でざらついた世界に、熱い瑞々しさを感じる手だった。そして、何よりも柔らかい。


「明日、良かったらまた、同じ時間に。無理はしないでね」


 アリージュが僕の額からそっと手を離した。


 そのとき、僕の耳に微かに届く音があった。高い、何かが擦れるような音だ。


「なに? この音……」


 それは遠い空から聞こえてくる音だった。僕はベンチから立ち上がり、家の隙間から音のする方向に目をこらした。青い空の先は、段々と暗い砂色に変わっている。肌に集中してみると、空気が先ほどよりも重々しい感じがする。


「砂嵐だ」

「砂嵐?」

「この街はよく砂をのせた砂風が吹くけど、年に何回か急に砂風の馬鹿でかいのが来る。それが砂嵐」

「危ないの?」

「行こう。砂嵐は足が速い。ここにいちゃだめだ。どこか建物の中へ」


 僕は急いで荷物をまとめて、無意識にアリージュの手をとった。アリージュは何が何だかわからないといった表情だが、一刻の猶予も許されない。僕は彼女を引っ張りながら、家の壁の間をすりぬけていく。


「どこへ行くの?」

「煙亭に行こう。多分近くの家はもう板戸をしてしまってて、入れてもらうのは難しい。煙亭ならここから近いし、アリージュは知らない場所よりそっちのほうがいいだろ?」


 共用井戸の前まで出たところで、僕は荷袋から野菜を包んでいた布をとりだし、アリージュの方へ差し出した。


「その布で鼻と口周りを塞いで。絶対布を外しちゃいけないよ。目も、なるべく開けないようにして。僕がアリージュの手をとって連れて行くから」


 街の中からは人がすでに消えていた。この街の人は砂嵐に慣れているから、先ほどの音を聞いてすぐに屋内に避難したのだろう。少しずつ街並みに影が落ちていっている。アリージュは素直に布を頭に巻いた。彼女の小綺麗な衣服に使い込んだ布が巻かれていて不釣り合いだったけれど、そんなことを言っている余裕はない。僕は再び彼女の柔らかな手をとり、強風の中を急いだ。

 顔に細かな砂粒が当たるようになってきた。彼女は僕の手を強く握り返してくる。彼女の様子を薄目でうかがうと、言いつけた通りに布にくるまって目を瞑りながらついてきている。さらにその背後を見ると、空がどんどん怪しい色に変わりつつある。


「もうすぐ強い風が来るけど、そのまま布に包まったままで大丈夫だから。僕の声が聞こえなくなるかもしれないけど、ついてきて。煙亭までもうすぐだ」


 ごうっ、という音とともに、強い風が背中にぶつかってきた。アリージュが、前のめりに倒れそうになったところを受け止める。手をつなぐだけでは支えきれない。彼女の肩を抱き、二人で寄り添いながら進む。いつもなら何でもない路を、目を薄らに開きながらゆっくりと進む。細かな砂粒が目に入り、涙が流れてくる。

 この街の老人たちは、砂嵐がおこることを「砂がく」と言う。遠くで砂嵐が発生したときの何かが擦れるような音が、動物の鳴き声に聞こえるからだ。砂嵐で怖いのは、視界がゼロになることではなく、砂を吸いこんでしまうことだ。細かい砂粒を吸ってしまうと、喉を痛め、呼吸に支障が出る。年をとるにつれ肺を病み、死んでしまう老人がこの街に多いのも砂嵐のせいだと言われている。じわじわと首を絞められながら、人々はこの街で生きている。僕たちは砂の街で、砂に侵され死んでいく運命なのかもしれない。そんなことを考えながら、こわばるアリージュの肩を引き寄せた。アリージュは、僕の上衣をぎゅっと握りしめていた。


 昨日も歩いた路地を確かめながら、角を曲がる。煙亭の看板が激しく揺れて、ガンガン、ガンガン、と規則的に大きな音を出している。


「着いた」


 なるべく唇を開かないようにしてアリージュにそう伝えたが、彼女は聞こえなかったのか、反応を示さなかった。彼女の肩を抱いたまま、板戸で閉じられた扉を叩いた。


「すみません! どなたかいらっしゃいませんか!」


 風で声が聞こえないのか、扉の向こうから帰ってくる声はなかった。強風の中、視界は砂に埋め尽くされていった。

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