9  怖さ

 子どもの頃に紙芝居で見た花畑が、目の前に広がっている。しゃがんでみると、いつも踏みしめている砂ではなかった。もっと色の黒い、じっとりとした塊。いつしかキャラバンで遠い地域まで行ったときに見た土だった。触ってみると、湿り気を帯びていて重たい。花の香りがする。生まれた砂漠の街では嗅いだことのない、少し甘い花の香り。びゅう、と強く風が吹く。舞うのは砂ではなく、色とりどりの花びらだった。舞い上げられた花びらが、空気の流れに乗り、踊っている。なんて美しい光景なんだろうか。瑞々しいその景色に、僕は見とれていた。砂ではなく、花に埋もれて死んでいけたら――。

 そっと目を瞑ると、体が何かに導かれるように自然と後ろに倒れていった……。



「……ファ? サルファ?」


 その声で、僕はゆっくりと瞼を開いた。明るさに目がくらむ。どうやら僕はあのまま眠ってしまっていたようだった。目の前には相変わらず砂岩の壁で囲まれた空がある。突然、太陽の光が遮られるように僕の顔に影が落ちた。


「起きた?」


 一瞬、何が起きたかわからなかった。すぐ目の前に、アリージュの顔があった。彼女は僕の顔をのぞきこんでいた。その長い睫毛が、僕の睫毛と触れあうかと思った。


「っわあ!」


 驚いて、慌てて体を起こした。いつの間にかベンチに座っていたアリージュも驚いたのか、目を見開いてこちらを見ている。


「ごめん、急に声かけて、驚かせちゃったね」

「ぼ、僕のほうこそ、ごめん……」


 混乱する頭で考える。僕はアリージュの膝の上に頭をのせて寝ていたのか? あ、えと、と声が出ない僕の様子を察したのか、アリージュは続ける。


「サルファ、頭の下に何も敷かずに寝てたから、痛そうだな、と思って。勝手にごめんね?」


 彼女は少し心配そうに眉尻を下げて謝った。目が覚めたときに彼女と顔が近くて、動揺を隠せずにいるのが情けなかった。そんな僕とは違い、彼女は冷静に絹のスカートの裾を直していた。


「サルファ、ちょっとクマができてるよ。疲れてるの?」

「あ。ああ……昨日アリージュの踊りを見た後、知り合いに飲みに連れて行かれて」

「昨日、見に来てくれたの?」


 彼女の表情がぱあっと華やぐ。僕はこくんと頷いた。

 昨日の彼女の踊りは、一挙手一投足思い出せるほどに鮮明に記憶に焼き付いていた。観客が砂嵐のようにうねりをあげて、広場は熱気に包まれた。その中央にいたのはアリージュだった。そして、観客を焚きつけた火は間違いなく、真っ赤な衣装をまとった彼女だったのだ。


「ねえ、どうだった? 綺麗だった?」


 ここでナセルだったら、「もちろん、お嬢さんが一番綺麗だったよ」とでも声をかけるのだろう。あいにく、僕の口には油が不足していて、そんなに滑らかに彼女が喜ぶ言葉をかけてあげることができない。不器用な自分を恨めしく思いながら、「うん」とだけ答えた。彼女は目尻に小さな皺をつくる。


「嬉しい。初めて主役を踊ったの。一二年で、やっとよ」

「一二年?」


 彼女は僕と同い年だと言っていた。今年十六になるのならば、四歳から踊りを始めたことになる。


「そんな小さい頃から踊っていたの?」

「そうよ。私、親に売られたの」


 彼女はにっこり笑いながら続ける。


「奴隷商の人の話によると、父親は酒飲みで、母親は病気だったんだって。父親が私を売ったんだけど、そのお金はお酒になったのか、薬になったのか、誰も知らないって言ってたわ。その奴隷商から買ってくれたのが、マーシャル座の座長だったの。小さい頃から座の一員として、もう毎日、踊りを練習し続けてきたのよ」


 僕は何も言えずに、彼女が語るままに任せていた。僕が知らない世界の話だった。彼女は膝の上で両手を組んで、向かいの家の壁を見つめていた。壁に寄り添うように、スナネズミが二匹連れだってせわしなく動き回っている。ふふ、と彼女の唇から笑みがこぼれた。


「だから今回、座長から『主役はアリージュだ』って言われて、本当に嬉しかった。だってそれまで、何足も靴を履きつぶすくらい練習したのよ。タミユさんに、『アリージュの靴代はバカにならない』って言われたくらい」

「そんなに踊ることが好きなんだ?」


 僕がそう尋ねると、アリージュはこちらを見て微笑んだ。その表情に、僕は少し違和感を覚えた。


「踊るのは好きよ。上手くステップを踏めたときや、音楽と自分の動きがぴったり揃ったときや、何よりお客さんが沸いてくれるとき、踊ってて良かった、と思う。でも……」


 スナネズミは僕たちに気づいたのか、キィッ、と一鳴きしてから壁に空いた穴の向こうへ消えてしまった。アリージュはそれを目で追いながら続ける。


「私には、踊りしかなかったの。踊らないと、マーシャル座にいられなくなる。温かい寝床も、ごはんも、家族も、みんな失う。それが怖くて踊ってるの。そう。小さい頃は、怖くて怖くて仕方なかったの。だから、毎日踊り続けたのよ」


 「ごめんね、こんな話で」と、アリージュは力なく笑った。僕はそんなアリージュを見て、胸の奥がツキン、と痛んだ。彼女の張りつめた口角が、微かに震えている。そんなに、無理して笑う必要ないのに。


「謝ることなんてないよ」


 僕自身が思っている以上に大きな声が出て、アリージュを怯えさせてしまったのではないかと焦った。アリージュは怖がっているというより、驚いていた。僕が彼女の言葉を初めて遮ったからだろう。僕の言葉の続きを待ってくれているのがわかる。僕は砂の中に落ちた小さな宝石を探すように、大事に、急いで言葉を探す。


「アリージュの気持ちが全部わかるとは思ってない。けど、僕にもわかるよ。僕は一二のときに父さんと母さんをキャラバンで失った。それなのに、僕自身もキャラバンに参加して生活するしかなかった。キャラバンって危なくてさ。流砂に巻き込まれそうになったことも、砂嵐で前が見えなくて自分の居場所がわからなくなったこともあった。夜、何人かに別れてテントの中で寝るんだけど、毎晩毎晩、『明日死んだらどうしよう』と思って眠れなかった」


 僕はアリージュをまっすぐに見つめ返した。


「僕にはもう失うものなんてないとそのときは思っていたけど、“明日”を失うことだけが怖かった。怖いのはおかしいことじゃない。誰だって、独りで眠る夜は怖いよ」 


 僕の声も、少し震えていた。こんなに自分の気持ちを吐露したのは初めてかもしれない。彼女の肩から、吐息とともに力が抜けていくのがわかった。仮面のように貼り付けられていた笑顔がなくなり、彼女の黒い瞳に空に浮かぶ雲が反射していた。


「ありがとう、サルファ。そんなこと言ってくれたの、あなたが初めてよ」


 彼女は悲しげで、笑ってはいなかった。

 それでいい。無理に笑わないでほしい。彼女が自然と笑いたくなったときに笑ってくれるのが一番いい。そしてそれが僕の隣でだったら、僕も嬉しい。そう思う。


 空高く、鳥が旋回しながら鳴いている。仲間を呼んでいるのだろうか。

 僕たちはベンチに並んで座ったまま、優しく吹く風に身を任せていた。

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