8 何してんだろ
頭の中で鐘が鳴っている。起き上がりたくない気持ちを奮い立たせ、寝床から這い出た。昨日は確か……。どうやって帰ったんだったっけ? 静まらない痛みをこらえながら、僕は働かない頭で必死に思い出す。そうだ、ナセルに誘われて煙亭に行ったんだ。
タミユさんは僕の耳もとで一言ささやいた後、ドレスのすそを翻して店の奥へ歩いていった。店に入ったときは気づかなかったのだが、一階のカウンターの端には階段があったようだ。その階段を、一段一段確認するようにゆっくりとあがって二階に消えた。
それを見送った後、仕切り直しだと思って目の前に置かれた蜜酒をいきおいよくあおった。喉を焼くような感覚がしたかと思うと、もう一度咳き込んでしまった。
そこからは、記憶が途切れ途切れになっている。確かナセルとは店で別れて、独りで帰ってきたはずだ。何回か転んだのだろうか、靴と下衣には汚れがついているし、家の中のいたるところに砂粒が散乱していた。水瓶の周りにも水の跡があった。昨日焦って飲んでこぼしたのだろう。
僕は立ち上がり、水瓶の縁に寄りかかりながら手杯を浸す。水面が波打ち、僕の顔を映した。疲れた目の下にはクマができていて、ひどい顔だった。砂漠のように乾ききった口に、ぬるい水を運んだ。体の隅々に水が行き渡るまで、僕は何度も何度も水を飲んだ。口端からこぼれた水を、袖でぬぐったところで少し落ち着いた。
昨夜のタミユさんの、どこか僕を試すようなあの言葉が頭の中で甦ってきた。
『アリージュ、“二階”にいるわよ』
彼女は僕に何を伝えたかったのだろう。アリージュが二階にいるから挨拶でもするかと聞きたかったのか。それとも、呼んでこようか、ということだろうか。そんな訳はないと、子どもの僕でも考えればわかることだった。僕はそこで考えるのを止め、外に出る支度を始めた。
街の西側にある市場に繰り出して、干し肉屋に向かった。干し肉屋のおばさんは静かに店に入った僕の姿を見て、目を見開いた。
「キャラバンから帰ってきてたのかい?」
おばさんに肩を叩かれた僕は「はい」とだけ答え、いつもと同じ干し肉を包んでくれるよう頼んだ。おばさんの威勢の良い返事が石壁に反響する。
「サービスしとくよ」
笑顔でためらう様子もなく、干し肉を一切れ多めに包んでくれた。僕はおばさんの荒れた手から包みを受け取って、お礼を言う。店を出ようとしたら、背後から「またきてね」とおばさんの声が届いた。僕は少し頭を下げた。
この街は、広いようで狭い。両親が死に、子どもの頃から独りで街の外れに住んでいる僕のことを心配してくれている人もたくさんいる。ブルジャーワシおじさんも、ナセルも、干し肉屋のおばさんも、厳しいキャラバンから帰ってきた僕の無事を喜んでくれる。それなのに、僕はどこかそれを素直に受け取れないでいる。街の人は僕のことを「かわいそうな子ども」のうちのひとりだと見ているのだろうと思うからだ。「サルファ」ではなくて、「両親をキャラバンで失った子ども」だと彼らの目には映っている。彼らの心配する気持ちを向けられるのは、僕でなくてもいい。いろんな人が行き交っている市場の石畳に目を落としながら、僕はそんなことを考えた。
なじみの店でヒラバの粉と干し野菜、豆を買うと、太陽は頂点を超えていた。街の道路は照りつく太陽のせいで熱を帯びていく。重くなった荷袋を肩に担ぎなおしながら、家に帰ろうとする。
『いつもお昼過ぎにここにいるから、またここで会える?』
昨日の日中のアリージュの言葉が思い出された。彼女は今日も、あの井戸の近くの狭い庭に独りでいるのだろうか。
僕は通りすがりの軽食屋に立ち入り、ザッギをふたつ買った。ヒラバの粉に水をくわえて練って焼いたものに、カリカリに焼かれた香ばしい肉と酢漬けの野菜が挟まれているザッギは、軽い昼食にはうってつけだ。焼きたてのザッギを荷袋にしのばせると、僕は家とは違う方に足を向けた。
家と家の隙間をすりぬけて、僕が昨日と同じ庭に辿り着くと、そこには石のベンチがあった。その上には珍しい小鳥が二匹、ついばみあっている。僕はその小鳥の名前がわからなかった。
急に荷袋が重くなったような気がして、ベンチに腰を下ろした。見上げると、家の壁で四角く切り取られた青空があった。鈍く働く僕の体と頭とは対照的に空は晴れ晴れとしていて、いっそう気分が落ち込んだ。無意識に出た溜息に呼応するように腹の虫が鳴る。無造作に置いた荷袋の中からザッギを取り出す。雑に置いた衝撃でずれてしまったのか、具が皮から少しはみだしてしまっていた。はみ出した酢漬けの野菜を皮に戻し、口に運ぶ。舌の上に広がった肉の脂は、いつまでもねっとりとした感触を残っていた。残りを口にねじこむ。初めて寄った店だったからか、あまり好みの味ではなかった。包みを丸めて荷袋に放り込む。
「あーあ、何してんだろ」
わざとらしくつぶやいて、ベンチに仰向けに寝転んだ。
アリージュが僕のことを待っているのではないかと、どこかで期待してしまっていた。僕は彼女と自分を重ねていたのだ。おとといの夜に偶然ぶつかって、昨日の昼に偶然ここで会った僕たち。この街で生きる僕のことを知らない、どこか親しみを感じる話しやすい彼女。仕事仲間でもない、自分の素性も知らない、お互い名前だけしか知らない。その関係性に期待しすぎていたし、彼女もその関係を良いように思っているのではないかと勘違いしていたのかもしれない。彼女にとっては、砂風のように一時通りすぎた出来事なだけで、忘れてしまう存在なのかもしれない。太陽が眩しくて腕で目を隠す。
「こんな自分が嫌になる」
僕はそのまま少し横になった。いつの間にか、意識は涼やかな風の中に溶けていった。
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