7 煙亭

 揺れる看板を見つめたまま立ち尽くす僕を見て、ナセルが肩をたたいてきた。


「何ぼうっとしてんだよ? 砂風も冷たいし、入ろうぜ」


 僕の足は進むのをためらっていたが、断る理由もなかった。先に煙亭の中へ入ったナセルの後ろに続いて、おそるおそる扉から漏れる熱気の中に足を踏み入れる。

 外から見るよりも空間は広く、入り口の真正面の壁に沿ってカウンターがある。フロアには不規則に円卓が置かれていて、多くの人が酒を飲みながら談笑している。空き卓はなく、夜とは思えない賑わいだった。


「一階? 二階?」


 正面から野太い声が投げかけられた。口髭をたくわえた体格のいい男の店員が、カウンターの中で濡れた杯を布で拭いていた。ナセルが「一階だ」と告げると、店員は物言わずカウンターを指差す。酒が強く匂う空気をかきわけて、ナセルの左隣に僕は座った。

 ナセルは店の顔なじみなのか、店員に薬草酒を二つ、慣れた様子で頼んだ。店員は大きな体で背後にある棚から白い陶瓶をとりだし、器用に杯に酒を注いでいく。無駄な動きがなく、僕は自然と目で追っていた。流れるような所作で、僕らの前に琥珀色の酒が置かれる。


「今日も大盛況ですね」

「本当に。キャラバン帰りの男たちもよく来てるよ。一階にも“二階”にもな」


 くくく、と笑ったあと、「ごゆっくり」と言って店員は僕らから離れた。


「ナセルはよくこの店に来るの?」


 早速酒を飲むナセルに尋ねる。こういう場所に来たことがない僕は、ナセルがとても大人に見えた。カウンターに置かれている蝋燭の火が、ナセルの薄茶の瞳の中で揺れている。


「たまにな。仕事で疲れたときとか、家にいるのが面倒くさいときとか」

「ナセルもそんなことあるんだ」


 僕の言葉を聞いたナセルは一瞬驚いたあと、はじめたように笑い出した。いつのも笑いではなく、どこか乾いた声だった。彼は手の中にある杯にまるく切り取られた酒に、自分の姿を映しているようだった。それ以上言葉が紡がれることはなく、ただ静かに酒を一口飲んだ。

 ナセルがキセルをくわえて店員を呼んだそのとき、僕の背後から声をかけられた。


「あなた、昨日の方じゃない?」


 僕が振り向くと、濃緑の服をまとった女性が立っていた。昨夜の広場でアリージュとぶつかったとき、彼女を迎えにきた年配の女性だった。名前は確か、タミユといっただろうか? あのときとは違い、今日は上品なドレスをまとっていて、雰囲気ががらりと違った。


「はい、そうです」

「お連れの方といらしてくださったのね。昨日はお怪我の様子もうかがわずに失礼してしまってすみませんでした。時間がなくてあわてていたものだから」

「大丈夫でしたので、お気になさらず」

「お伝えしていたように、一杯奢りますわ。店長! こちらの殿方たちに一杯ずつ、蜜酒を差し上げて」


 店員だと思っていた男は店長だったらしく、「はいよ」と返事をして、また慣れた手つきで酒を注いだ。僕とナセルの目の前に、黄金色に輝く酒と水が置かれる。女性は僕の左隣でカウンターにしだれかかるように席に座った。距離が近く、僕の左半身は少し緊張する。


「このお酒は私たちが旅の道中に手を入れて、こちらのお店に買ってもらったものなの。ここらじゃとても珍しいものだから、ぜひお飲みになって」


 昨日の広場ではこの女性に対して少々怖い印象を持っていたのだが、それは勘違いだったのかもしれない。なんというか、距離の詰め方が上手い。アリージュはいつの間にかそこにいたような近さがあるが、この人は真正面から距離を詰めてくるのに、それを不快に感じさせない雰囲気を持っている。

 僕は水で喉の奥に残った薬草酒を洗い流してから、蜜酒を少しなめた。今まで味わったことのない、華やかな香りと甘みが口に広がった。酒ではなく、本当に蜜をなめているようだ。とろりとした飲み心地の中に、ほんのりと花の香りを感じた。


「そう。このあたりでは咲かない花の蜜から作られているお酒なの。私も大好きなお酒よ」


 薬草酒は喉から鼻へ駆け抜けるような爽やかな香りがあるが、この蜜酒はまろやかな甘みで満たされている。僕にはこちらのほうが飲みやすい。二口、三口と進む。良い飲みっぷり、と女性は顔をほころばせた。


「遅くなりましたけど、あなたとその隣の常連様のお名前を伺ってもよろしくて? 私、マーシャル座のタミユと申します」


 タミユさんは頬に手の甲を沿わせる女性式の礼をした。顔には細かなしわが刻まれているが、どこか艶やかな印象がある。


「僕はサルファと申します。キャラバンに参加してます」

「俺はナセル。ザマ飼いです」


 店長は無言で、タミユさんの前に同じ蜜酒を注いだ杯を置いた。タミルさんは僕たちとそれぞれ握手をしてから、杯を掲げて口元に運ぶ。唇がゆるく弧を描き、ふふ、と笑みがこぼれた。


「今日は“二階”をご利用?」


 いきなり尋ねられて、僕は喉に力が入ってしまって咳き込んだ。「あらやだ、大丈夫?」と、タミユさんは店長を呼んでもう一杯水を頼んでくれた。店長から受け取った水をこちらに差しだしてくれる。彼女の手は枯れ枝のようにかさついていたが、爪には煉瓦のような顔料が塗られていた。咳き込んだせいで涙が出て、爪の輪郭がにじんで見えた。


「今日はっ……酒だけですよ」

「あら、そう。残念」


 タミユさんは僕のものより酒が残った杯を一気にあおいだ。かつんと音を立てて杯をカウンターに返したが、顔色は一切変わっていなかった。少し笑みをたたえながら、タミユさんは席から立ち上がった。


「お二方のお邪魔をしてごめんなさいね。どうぞ今宵のお酒を楽しんで」


 彼女はきびすを返し立ち去ろうとした。すれ違う瞬間、タミユさんは僕の耳元でそっとささやいた。


「アリージュなら、“二階”にいるわよ」


 僕がタミユさんの方を振り向くと、口角をゆったりと上げて僕を見ていた。微笑んでいるようにもけしかけているようにも見えるその顔の真ん中には、真っ赤なべにが塗られた三日月が浮かんでいた。

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