6 ナセル

 踊り子と楽団が舞台からはけたあとも、湿気を帯びた熱が広場に満ちていた。僕は夕食を探しに行くこともなく、ただ柱に背を預けて地面に腰を下ろしていた。周囲の人たちは「ああ、楽しかった」と連れ合いと話しながら順番に席を立って屋台のほうに移動していく。その間にも僕は、自分の中に渦巻く砂嵐のような感情を表す言葉を探し続けていた。体の表面はざわついたままなのに、心臓の奥底はやけに凪いでいる。子どもの頃、行商として街にやってきた紙芝居を思い出す。髭の蓄えたおじさんが物語を語る度に、いつ絵木板がめくられるのかとワクワクしていた。冒険から目を離すことができず、終わった後は他の子どもが帰った後も呆然として浸っていた。そのときと同じなのに、どこか同じでない感覚があった。僕はまだ、この感情を知らない。


「あれ? サルファ?」


 聞いたことのある低く響く声が頭の上から降ってきた。見上げると、見覚えのある銀の短髪がたいまつに照らされて橙色に光っていた。


「ナセル」

「珍しいな、広場に来てるなんて」


 ナセルは僕より幾分たくましい腕を伸ばし、僕に手を差し伸べてきた。僕はその手を掴んで立ち上がる。彼の手のひらは烈火のごとく熱を帯びていた。


「今回のキャラバンはどうだった?」

「何も変わらない。ただ工芸品を売って、食料と必需品を買ってきただけ。いつもと同じように砂嵐にあって、いつものようになんとか帰ってきただけだ」


 先ほどまでの舞台を見て僕も少し興奮しているのか、無駄なことまでナセルに言ってしまった気がしてばつが悪かった。ナセルは一瞬きょとんとしたが、豪快に笑い飛ばした。


「相変わらずだなあ、サルファ。それがいつも同じだとは思わない方がいいぞ」


 ナセルは僕の頭をぐしゃっと撫でた。子どもの頃と同じように扱われるのは癪だったので、ナセルのものより細い腕で払いのけた。

 ナセルはこの街の若者の中で最も慕われている男だ。僕より三つ年上だが、この街の青年団の団長を務め、ザマの管理を仕事にしている。ザマはキャラバンで荷を負わせる重要な役目を持つ四つ足の家畜だ。ナセルの家は代々この街でザマの管理の任についているため、その周りには自然と人が集まっていく。兄弟の中でも一番快活なナセルは、この街の若者をとりまとめるような立場にある。そのためか、血も繋がらない無愛想な僕を弟のように思っている節があるのだ。僕は彼への憧れと疎ましさを両方持っていることを自覚していた。


「いつもはキャラバンから帰ったらめったに顔を出さないのに。どうした?」

「食材を買い忘れてて」

「そうか。なら一緒に食わないか? 俺も今日は仕事が延びて、さっき来たばかりなんだ」


 本当に先ほどまで仕事をしていたのか、ザマの枯れ草のような獣の匂いが僕の鼻をくすぐった。断る理由もなかったので、僕は曖昧にうなずいた。そうと決まればと、ナセルは僕を引き連れて屋台に向かい、馴染みの店主の屋台で夕食を次から次へと調達していく。僕は荷物持ちとなり、ナセルの後をついていくだけだった。流れるように彼は広場にあったベンチの一つを確保し、僕に向かいの席を勧めてくる。僕は言われたまま大人しく座り、買ってきた食べ物を机に並べてから、お代の半分を差し出した。ナセルは「律儀だな。いらないよ」と言って、酒が入った杯を代わりに差し出してきた。こういうとき、大人と子どもの境目がどこなのか、よくわからなくなる。わからない僕は、まだ子どもなのかもしれない。その言葉に甘えて硬貨を袋にしまい、僕も杯を掲げた。かつん、と鈍い音がした。


「今日、奥さんは?」

「家にいるさ。赤ん坊の面倒見てる」

「え? 生まれたの?」

「そうか、おまえがキャラバンに出る前はまだ腹の中にいたんだった。もう二ヶ月になるよ」


 出立式の日、キャラバン隊を見送っていたナセルの隣で、おなかの重たそうな奥さんが寄り添っているのを見かけたのを思い出した。確か奥さんの弟がキャラバン隊のザマ牽きをしているはずだ。


「家で赤ん坊の世話しなくてもいいのか?」

「昨日今日はザマの引き入れで忙しかったから、羽根を伸ばしてこい、って言われたよ」


 ぐい、と杯を傾け、僕よりも何倍も早いスピードで彼は酒を飲み干した。僕も慌てて後を追う。ナセルは片手でゆっくりでいいとジェスチャーする。前衣の隙間からキセルと煙草をとりだし、近くのたいまつから火を移した。薄い唇から吐かれる煙は光を帯びながら深い暗闇に散っていった。むせそうになり、喉にぐっと力を込める。彼はいつから煙草を吸うようになったのだろうか。これも僕は知らない。


「酒が足りないなあ」

「買ってこようか」

「場所を変えよう。飲みたいし、煙草も買いたいし。ついてこいよ」


 煙草をふかしながらナセルは席を立った。飲み食いした皿を店に返し、ナセルの後をついていく。いつの間にか人はまばらになり、たいまつの数も少し減らされていた。風が少し吹きはじめ、薄着だった人たちが衣の隙間を閉じながら背を丸めて歩いている。正直飲み食いはもう十分だったが、この街では珍しく僕に声をかけてくれるナセルの誘いを断るのはどこか心苦しかった。

 道中、僕らはたわいもない話をした。子どもはかわいい? かわいいよ。ザマ管理の仕事はどう? 基本的には変わらない。今回のキャラバンで一頭は引退かな。そんな話をした。子どもの頃はもっと話すことがあったのに、大人になるにつれて話すことが見つからなくなっていく。話の間を埋めるために、煙草や酒があるのかもしれない。そんなことを思いながら、石畳を歩いていく。

 ナセルは石畳の続く先を指差した。大きな二階建ての建物の窓からは明かりと笑い声が漏れてくる。


「ここ。遅くまでやってるから、よく来るんだ」


 びゅう、と勢いよく風が道を駆け抜けていったせいで、看板が激しく揺れる。古びた木の看板には、キセルと杯の絵と、『煙亭』という文字が書かれていた。

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