5 舞台の踊り子

 夜が更け、窓から見える街の外の砂漠は完全な闇に包まれていた。反対に、街の中心は今日もぼんやりとした光を放っている。そのまま家で夕食を食べればいいものを、「まだ食料を十分に買い出しできていないから」と自分に言い訳をして広場に繰り出した。


 今宵は風もなく、広場に掲揚されている街旗ははためくことなく垂れ下がっている。昨日の夜よりも人が少なく歩きやすいが、街の人々は今日も久しぶりに会えた家族や友人の帰還を祝っている。父親は娘を抱きかかえ、母親は息子を讃えている。男性は友人の無事を喜び、女性は旦那の無事を知り泣いている。ここには老若男女が集まっているのに、独りでいる僕だけまるで異物のように思えた。誰も僕のことを待っておらず、僕の帰還を喜ぶ者はいない。砂のように、誰の意識にも止まらず流されていくだけの人間なのだ。冷たい風は吹いていないのに、こういうところへ来るとそれがナイフで切りつけられるように身に染みた。


「そろそろだな」

「舞台の近くに席とっといてくれ。酒と飯を買って持ってくからよ」

「おう」


 僕より少し年上の青年たちが、そう声を交わしながら目の前で二手に分かれていった。片方は屋台の並びへ、もう片方は広場の中央に据えられた舞台の方へ向かっていく。僕は広場の方へ向かう人たちの後ろに従って歩いていった。

 この広場はもともと集会用に作られている。中央には周囲より一段高い舞台があり、その周りを囲うように砂岩で作られたベンチが並んでいる。いつもは街長の就任式やキャラバンの出立式、遠くの首都からやってくる客人の歓迎会など、政治的なイベントで使われることが多い。新しい国王が誕生したりキャラバンが帰ってきたりすると、一気にお祭りムードになり、舞台では様々な演目が催される。

 集団から離れ、一人でも座れそうな席がないかと周囲を見渡す。みんな砂岩の上に持参した敷布をかけたりして、屋台で買ってきた食べ物を並べている。一番端に座っている家族は、香味野菜を煮込んだ金色のスープや、様々なハーブやスパイスが振られてこんがりと焼かれた骨付き肉、豆をすりつぶして練って焼いたパンなどが並んでいる。いい香りがこちらまで漂ってきて食欲を刺激されたが、いつアリージュが登場するかわからなかったので、屋台に買いに行くことができない。結局空席を見つけることも食事を調達することもできずに、広場にある柱によりかかって舞台の方を見つめていた。


 ざわざわ、ざわざわと、徐々に波が大きくなっていく。そろそろ始まるのだろうかと思ったそのとき、一人の正装をした男性が舞台の中央に現れた。何か叫んでいるのが聞こえるが、人々のざわめきに埋もれてはっきりと聞こえない。男性がこなれた所作で深々とお辞儀すると、舞台の近くの席に座る人々がわあ、と盛り上がった。拍手が聞こえる。始まりの挨拶だったのだろうか、僕も、僕の周りの人もつられて小さく手を叩いた。

 いつの間にか舞台の左右に楽団が座っていた。バチで叩く大きな太鼓と、二つの小さい太鼓がくっついているもの。小ぶりの弦楽器の音を調整している。そして、大小様々な笛。細かい部品がついた金属の楽器は準備をしている間にもシャラシャラと賑やかな音を立てている。父も母も音楽はしなかったので、僕は楽器に詳しくない。見たことのない楽器ばかりだ。楽団の一番左に座る老人が、枯れ枝のような手を振った。


 一斉に笛の音が流れ、一瞬で観客の声が消えた。最初に老人が手を振ったきり、合図を出すわけでもなく、演奏者それぞれが自分の居場所を心得ているように音を奏でていく。音楽は緩やかに速くなっているのに、楽団は微塵も乱れず、その場の空気を掌握していった。音に引き込まれるかと思いながら、観客は楽団の方を見つめ、今か今かとその時を待っている。僕もそのうちの一人だった。


「「シュターヤ!」」


 小鳥のように甲高いかけ声が聞こえた途端、舞台袖から豪奢な衣装を着た踊り子たちが順番に登場する。みな同じ白い衣装を翻しながら、舞台をステップで華麗に移動していく。時には腰をふり、時にはジャンプをし、時にはスピンする。露わになっている肌には真珠の粉が振られているのか、躍動しながらきらめいている。僕はじっと目をこらし、アリージュを探した。けれど、どの踊り子もアリージュとは違う気がする。あの人はアリージュよりも背が高い。あの人よりもアリージュの顎の方がとんがっているように思える。観客が盛り上がって振り上げる手の隙間から、必死でアリージュを探す。


 白い衣装の踊り子が左右に分かれたと思ったら、太鼓の音がいっそう激しくなった。まるで、何かをけしかけているようだ。刹那、踊り子の間から勢いよく登場する影があった。深紅の衣装を着て、踊り子の中の誰よりも高く跳んだ。歓声がよりいっそう大きなものになる。目元には黒のライン、唇には真っ赤なルージュが引かれている。口角を少し上げたその表情は、妖艶そのものだった。化粧をしていて最初はわからなかったが、一度ターンをしたところで気づいた。


「アリージュ!」


 最初登場した男性の声が響き渡る。同時に、観客席から指笛の音が上がった。

 今日の昼間、井戸の近くの空き地で見たものと同じターンを繰り返す。腕を観客の方へ伸ばし、腰をふって舞台を激しくステップで移動していく。舞台から一番近い席だったら彼女の汗も飛んでくるのではないだろうかと思うほど、彼女の踊りは熱情に溢れていた。まるで最愛の男と愛し合っているようにも見えたし、最愛の男と別れて悲しんでいるようにも見えた。彼女が体をくねらせ、荒々しくステップを踏むと同時に、太鼓の音と衣装についた飾りが奏でる音が響く。すべての音が舞台のまわりにそびえる砂壁に反射し、観客の心臓を刺激する。僕は彼女から目を離せない。


 たいまつの灯りに照らされた彼女の表情は、昼間のものとは違った。化粧のせいなのか、それとも彼女の才能が為せる技なのか、僕にはわからなかった。ただ彼女は笑い、その井戸の底のような黒い瞳を輝かせ、観客の視線をとらえて離さない。太鼓の激しい音が鳴る度に、僕の肌はさざめいていた。


「綺麗だ」


 自然とそうこぼしていた。砂まみれの乾いた世界に、一輪咲いた深紅の花のように見えた。僕は喉の奥が熱くなっていくのを感じた。ああ、なんて綺麗なんだろう。観客の声も楽団が演奏する音楽も、僕の耳には届いていなかった。感覚が研ぎ澄まされていくようだった。体が、彼女の踊りを見逃すまいとしていた。


 わあ、と観客の声が上がると同時に、アリージュと踊り子たちはポーズを決めていた。アリージュは中央で、激しく肩で息をしていた。歓声を追うように、拍手が空間を満たす。今度は僕は拍手しなかった。できなかった。自分の腕を掴んでいないと、涙をこぼしてしまいそうだった。

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