4 アリージュ
「昨日はごめんなさい。怪我はなかった? タミユさんたら、私のことだけ心配してあなたが怪我をしてないか聞かずに行ってしまったから」
彼女は昨日のようなドレスではなく、年頃の娘たちが普段着るような服を着ていた。形や刺繍などはこの街のものではなかったが、彼女とこの風景にとても馴染むものだった。ドレスのときは香水の香りがするように感じたのに、彼女は水や風や乾いた砂のように、自然のままだった。昨夜は金色の装飾に彩られていた髪も、無造作に後ろでひとつにまとめられているだけだった。あれだけ近くで出会っていなければ、きっと同じ女性だと気づかなかっただろう。
「怪我はありませんでした」
「そう、よかった。タミユさんはね、いつも私の面倒を見てくれる人なの。私がおっちょこちょいだから、タミユさんは心配しっぱなしなの。ねえ、あなたはこの街の方? それとも滞在している方?」
人見知りをせず目を輝かせる彼女に、僕は驚いた。初めて会う人にも警戒心を抱かせない屈託のない表情を向けてくる。
「この街で育ちました。今はキャラバンに参加することが多いので、街で過ごす時間の方が少なくなりましたが」
「キャラバン! いろんな街を知っているのね。素敵」
彼女は自身が座っているベンチに溜まった砂を手で払った。その場所を指し示し、僕に椅子を勧めてくれた。水瓶を共用井戸に置いたままだったが、別に盗られるものでもない。僕は彼女の勧めに応じ、隣に腰掛けた。彼女が砂を払った場所よりも、体半分、間を空けた。
「いろんな街のお話、聞きたいわ。私はアリージュというの。あなたのお名前は?」
「サルファ」
「まあ、宝石の名前ね。普段は碧いけど、光に透かすと橙や紫が混じり合って、なにか奥底に力を秘めている。私、とても好きな宝石なの」
僕は背中がむずがゆくなった。彼女の言葉には裏がないように聞こえる。本当に思っていることが唇から自然と流れ出ているようだ。誰にでも好かれる才能が、彼女にはあるように思えた。
「サルファは何歳なの? もしかすると私より年上かしら?」
「十六歳です」
「私と一緒! ねえ、私と友だちになってくれない? この街に来たのは初めてなんだけれど、近い年齢の人があまりいなくて」
アリージュはしなやかに背中を曲げて、僕の顔を覗き込んだ。彼女は人との距離が普通の人よりも近いようで、昨夜と同じように僕の体は少し強ばった。それが伝わったのか、彼女はさらに口角を上げる。さりげなく再び僕と距離を空ける彼女を見て、彼女にはすべてお見通しなんじゃないかと勘違いしてしまう。あまりにも人の機微を感じすぎる人だと思って、僕は言葉を慎重に選ぶ。
「僕でよければ」
「本当? 嬉しい。私、一週間前からこの街に滞在していて、あと三週間くらいいるの。いつもお昼過ぎにここにいるから、またここで会える?」
僕がうなずくと、また彼女の笑顔が咲いた。草木が風でそよぐ遠い街の片隅に咲いていた、白い花に似ていた。一瞬、彼女の笑顔に見とれる自分がいた。
「行かないと。水を汲んだまま水瓶を置きっぱなしで」
「そうだったの。ありがとう。もしよければ、今日の夜も広場で踊るから、見に来てね」
「君も踊るの?」
「もちろん。これでも、踊りはマーシャル座の中でも一番、って言われてるんだから」
彼女は胸を反らしてこぶしで胸をたたく。
「昨日、ぶつかった時間だともうステージは終わってるから、もう少し早い時間にね」
「わかった」
僕はベンチから立ち上がり、彼女のほうに砂が流れないように気をつけながら服についた砂を払い落とした。彼女は一つもひび割れていない手入れされた手を僕に向かって振る。僕はここに辿り着くときに通ってきた壁の間を抜けようとして、彼女の方を振り返る。
「あの」
彼女は不思議そうな顔をして僕の言葉を待っている。
「僕は君のこと、何て呼べばいい?」
勝手に名を呼ぶのはどこか失礼な気がして尋ねたのだが、そんな質問をしていることのほうが恥ずかしい気もした。僕は地面に落としていた視線を、おそるおそる彼女の方に向ける。彼女は、黒い瞳でまっすぐにこちらを見つめていた。
「アリージュ、と呼んで?」
不意に彼女が立ち上がり、その場でターンをした。指先は何かを掴もうとしているように切なげに伸びる。風を味方につけたように、服の裾は翻る。まるで天使がその場に舞い降りたようだった。ターンし終わると、彼女は目を伏せながら跪く。すべてが計算されたように美しい所作だった。先ほどまで話していた彼女とは違う、“踊り子のアリージュ”だった。
「また、夜に」
彼女が立ち上がった瞬間に表情はぱっと切り替わり、また屈託のない表情に戻っていた。どちらが本当の彼女なんだろう。僕は不思議な感覚に襲われた。彼女はひとりなのに、彼女がふたりいるかのようだった。ここで出会った人なつっこい彼女と、踊り子の彼女。あと何人、彼女はいるのだろう。
「また夜に。アリージュ」
僕がそう言うと、彼女は何度もうなずいて手を振ってくれた。僕が壁の隙間に消えていくまで、彼女はそうしていた。
狭い壁の間を体を斜めにして歩く間にも、彼女のことが頭から離れなかった。先ほどまで重たかった体は、砂を跳ね返すように力を増していた。井戸の元へ戻ると、そこには日差しで少し温まった水瓶があった。僕は水瓶を背負い、帰路につく。歩いている間、彼女との距離が近くなってきたときに鼻孔をくすぐった甘い香りを思い出す。
アリージュ。
異国の言葉で聞いたことがあった。遠路はるばる旅をしてきたキャラバン隊を、街全体で歓迎してくれたとき。小さな女の子が「アリージュ」と言いながら花をくれた。
アリージュ。
芳香。いい香り。
彼女にぴったりの名だ、と思った。
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