3 井戸

 日差しが窓から差し込み、頬がジリジリと焦げつくような感覚に襲われた。僕は重たい体をもたげて、陰のほうへ体を転がす。いつもの柔らかな寝服ではなく、昨夜、外に出たそのままの服装だった。目を微かに開くと、視界はぼやけている。ああ、あのまま寝てしまったのか。それくらいのことを考えるのが限界で、僕はそのままもう一度まぶたの重さに逆らわずに目を閉じた。


 昨日はキャラバンから帰ってきてその足で夜に広場に繰り出し、肉串と酒を空の胃に放り込んだのだ。いくら何でもやりすぎたと、重たい頭で反省する。

 キャラバンは厳しい仕事だ。短くても二ヶ月、長いと半年以上ものあいだ砂の世界を歩く。油断が命とりの世界だ。食料や水が何らかのトラブルで枯渇してしまったり、毒草や毒のもつ生き物に襲われたり、熱かったり寒かったりで簡単に隊は全滅する。だからキャラバンに行くときは、入念に準備をする。失敗は許されない。行程では危険を回避するために、常に緊張して周囲を見渡しながら歩く。早く荷を届けようと焦ってしまうが、余計な体力を消耗しないよう、絶妙なバランスを保ちながら、一歩一歩荷を運ぶしかない。僕も一二歳のときから参加しているが、幾度も危ない場面に遭遇している。水をあまり飲んでおらず頭がぼーっとしていたとき、しっぽに毒棘があるトカゲを踏みそうになったことがある。隣を歩くおじさんに服を掴まれ、すんでのところで踏まずに済んだ。おじさんが持っていた杖でトカゲを隊列から離れた場所に移動させて、事なきを得たのだ。どの隊でも一番年若い僕が、よくここまで死なずにやってこれたと思う。父さんも母さんもキャラバンで砂漠を進んでいる最中に死んだのだから、きっと僕もいつかキャラバンの途中で死ぬのだろう。何の根拠もないのに、なぜか僕はそうなるという確信があった。


 もう一度目を開けると、太陽は先ほどから傾きを変えていた。もうひるをすぎているようだ。今朝よりかは幾分気分がマシになっていた。今度こそ体を起こし、水瓶みずがめまで体をひきずるようにして歩み寄る。


 あ、水が。


 昨日、疲れて帰ってきたときは「明日もう一度汲みに行けばいい」と思い、少ししか飲み水を運ばなかった。瓶の中の水はなくなってしまいそうだった。まずは干していた布に少し水を染みこませて、それで砂だらけの顔を拭う。瓶の底に残る水をカップで掬い、カラカラの喉に滑りこませる。喉の粘膜が乾燥でひび割れていたところにぐんぐん水が吸い込まれていくのがわかった。少し目の前がすっきりした僕は、瓶を背負って井戸へ向かった。


 共用井戸は街のいたるところにある。地下水脈が街の中央あたりから放射状に伸びており、その水脈に沿って井戸が点在している。住民が多く住む区の共用井戸は利用者も多い。水汲みは女性か子どもの仕事だ。女性も子どもも苦手で話したくない僕は、もっぱら街の東の外れの共用井戸を使っていた。街をぐるりと囲む外壁のそばにある井戸で、単純に中心街から遠く、利用する人は限られていた。僕のように人にあまり会いたくない人たちが群がる場所であった。


 だるい腕をなんとか動かし、深い井戸から水をなんとか汲み上げた。父さん母さんが死んで間もない頃は、井戸のふちが高くて底が見えず、怯えながら水を汲んだものだ。何かの拍子で足を滑らせて井戸に落ちたら。誰にも聞かれることのない叫び声をあげながら、ドボンと黒い水に落ちて死んでしまうのだろうかなどと考えていた。同時に、心のどこかで「ここに落ちたら、父さんと母さんの元へいけるのだろうか」とも思った。

 今では背が伸び、井戸の縁は腰よりも低くなった。井戸の中を覗き込めば、水面で僕の影が揺れているのが見える。縁に足をかければ、いつでも飛び込める。

 この街はいつでもどこでも隣に死がある。この街を出て帰らない人もいれば、街の中で貧しくて飢える人もいる。死ぬことを怖がる人々は恐怖を掻き消すように人と笑い、踊り、酒を飲み、交わる。僕はその街の一部だ。汲み上げた瓶の水の表面に、クマができた僕の顔が映る。僕はそのまま水瓶に蓋をした。


 強く吹いた風が、砂とともに微かに音を引き連れていた。僕が聞いたことのない旋律だった。茶に入れるスパイスのように、ふわりと香る鼻歌だった。僕は水瓶を置いたまま、音の出所を探す。

 僕がいつも通うこの共用井戸は街の東側の端に位置している。東地区といわれるこのあたりは砂風の煽りを受けやすく、住んでいる人たちは年々減っていた。寂れた石壁の家は空き家も多い。僕が住んでいる家の周りにも子どもはおらず、長年住み続けている老夫婦だったりとか、事情があって独りになってしまった人たちが、交流もほとんどなくひっそりと息を潜めるように暮らしている。こんなに瑞々しい、砂漠に落ちる一滴の水のような歌声を奏でられる人は、このあたりで見たことがなかった。

 風が空気を切り裂く音の中で耳を澄ましながら、歌がもっとはっきりと聞こえる方向へ歩を進めていく。まるで何かに「おいで、おいで」と導かれるように、僕はその音を追っていた。

 共用井戸の奥の空き家の間を縫っていくと、そのまた奥に四方を家で囲まれた空き地のような場所に出た。キャラバンの荷を背負わせる家畜のザマが三頭入るかどうか、という広さだ。以前住んでいた住人が庭として活用していたのか、そこには石を組み上げて作られたベンチがあった。一人の女性が座っている。


「あ。昨日の」


 壁の隙間から現れた僕に気づいた彼女は、昨夜僕とぶつかった女性だった。旋律が止み、僕は少し残念な気持ちになる。邪魔になるといけないと思い、そのまま去ろうかと考えたが、僕の意に反して足は前に出た。彼女の両眼が柔らかな光を含んで僕の方を見つめている。

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