2 出会い

 「ご、ごめんなさい。人にぶつかってしまって」


 僕の膝の上でもがく女の人は、井戸に落ちる水滴のように澄んだ声だった。細身の体には今まで見たことのない金色の細かな刺繍が散りばめられた深紅の薄い布をまとっている。彼女は均整のとれた腕で、やっと自分の上体を起こした。彼女の上半身は胸の部分しか隠れておらず、縦に細いへそが露わになっていた。まとめられた黒髪には、金色の装飾と赤いリボンがあしらわれている。彼女のほっそりとした柔らかな指が僕の膝小僧を包み込んでいて、その部分だけ体温が上がっていく。ふわりと花のような甘い香りが漂ってきて、僕は彼女から目を離せなくなっていた。


 しゃらん、という髪飾りが揺れる音とともに、彼女がこちらを見た。彼女の顔が目と鼻の先にあり、僕は驚きを隠せない。陶器のような白い肌に浮かぶ黒い瞳は、オアシスの中の井戸のように深く底が見えなかった。タズリの花びらのようなピンク色の小さな口から、僕にしか聞こえない大きさの声で彼女は呟いた。


「綺麗なあお色……」


 彼女の瞳は、僕の目をまっすぐに覗き込んでいた。僕の目は、この街に住む人の中では珍しい碧色をしている。この街に根付いている人々は、砂糖を煮詰めたような濃い茶色だ。この街の外から嫁いできた母親の血を色濃く受け継いだ僕の目の色は、このあたりでは僕以外に見かけない。幼い頃、母親は「海のような色の目だ」と言いながら頭を撫でてくれた。僕はその母の仕草がとても好きだったことを思い出していた。


「何してんの! アリージュ」


 別の女性の焦った声に、僕ははっと意識を取り戻した。麻布をまとった年配の女性が、こちらに駆け寄ってくるのが見える。布からのぞく顔と手首の肌が褐色で、遠くの国からやってきた人だということがわかった。


「ひ、人にぶつかって……」


 年配の女性に腕を掴まれて、「アリージュ」と呼ばれた彼女はようやく僕の膝の上から立ち上がった。僕も慌てて体を起こし、自分の服の砂を払った。年配の女性は彼女が怪我をしていないか、ドレスが破れていないかなどを確認して、自分が砂で汚れるのも気にせず砂を払っていた。彼女は擦り傷ひとつなかったようで、年配の女性は安堵していた。表情はすぐに真剣なものに切り替わって、僕に向かって頭を下げた。


「ごめんなさい、この子がご迷惑をおかけしました。『マーシャル座』のタミユと申します。よろしければ『煙亭けむりてい』にいらっしゃって。お詫びに一杯ご馳走するわ」


 あなたも頭を下げなさい、と言われて、彼女は続いて僕に謝罪した。僕が気にしていない旨を伝えると、ふたりとも何度も頭を下げながら足早に去っていった。何か急いでいる様子だ。僕はその場に立ち尽くしながら、彼女の後れ毛と深紅の布が夜風になびいているのを見つめていた。



 アリージュ。彼女の名前。

 僕の目の碧を綺麗だと言ってくれた女性。


 僕はその名前を、心の中で反芻した。



 ぐう、と腹の音が鳴った。いきなりの出来事で忘れていたが、腹が減っているんだった。僕はブルジャーワシおじさんに勧められたカジラニという人の店を尋ねた。カジラニさんの店は隣の店よりも半分ほどの大きさしかなくこじんまりとしていた。彼はここらでは珍しく小太りで、口ひげをたっぷり蓄えている。屋台には、甘辛く香ばしい羊の串焼きが、よく燃えた炭火の上に並べられていた。一本注文すると、まんまると太った手が器用に串をひっくり返して、一本を僕に手渡してくれた。ブルジャーワシおじさんに勧められて尋ねたことを伝えると、彼らは旧知の仲だったらしく、一本サービスしてくれた。ひとくち食べると、まず香草の爽やかな香りが鼻孔をくすぐり、追って口の中で甘い脂と濃い肉の味が口いっぱいに広がった。ブルジャーワシおじさんにもらったお小遣いと相談しながら、もう一串食べることにした。


「兄ちゃん、酒は飲めるかい?」


 僕の食べっぷりが気に入ったのか、カジラニさんが屋台の下戸棚から酒瓶を出してきた。見た感じ、麦酒のようだ。たまにキャラバンで勧められて酒を飲むこともあるので、嫌いではない。めったに自ら進んで飲むことはないが、ひとつもらうことにした。カップに入れてもらい、勢いよく口の中に注いでいく。喉が渇いていることもあったのか、琥珀色の飲み物がみるみるうちになくなっていった。香ばしい麦の風味が口の中に広がり、串焼きが進む味だった。麦酒を飲んでは肉を頬張り、肉を味わっては麦酒で喉を潤した。主人はニヤニヤしながら炭火を調整している。


「けっこう飲めるじゃないか。飲み足りないなら、夜は『煙亭』に行くといい」

「『煙亭』?」


 さきほどぶつかった女性を連れて帰った年配の女性が口にしていた店の名前だ。僕は歯で串から肉を抜き取りつつ尋ねる。


「酒が有名なところ?」

「そうさ。麦酒に乳酒、果実酒、薬草酒。種類もいろいろあるぞ。俺もたまに行くよ」


 彼は焼き場の空いたスペースに新しい串を置いていく。肉はちりちりと炎で炙られ、瞬く間に脂が表面ににじんでいた。焼きたての肉の香ばしい香りが漂ってきて、先ほど満たした食欲がまた刺激される。


「まあ、酒が目的じゃない奴もいっぱいいるが、いい店さ」

「酒が目的じゃないって?」


 カジラニさんはハハハ、を高らかに笑った。口角がつりあがり、口髭が湾曲する。


「もう兄ちゃんも子どもじゃないんだからわかるだろ? 煙亭には『二階』があるのさ」


 その含みのある言い方に、僕は一瞬口の動きを止めた。酒場の二階。その言葉に、舌の上でころがる肉は味を失い、温い麦酒は一気に苦みを増した。カジラニさんは僕のその様子には気づかないまま、「勉強させてもらえよ」とからかってくる。僕は肉と一緒に残りの麦酒を飲み干し、カジラニさんに挨拶もそこそこに店を立ち去った。



 街は騒ぎも少し収まり、酔った人たちが大声を出しながらちらほらと帰路についていた。街はずれにある家へ続く道を歩いていくと、足取りがおぼつかない男たちが三人、肩を支え合いながら前から歩いてきた。すれ違う瞬間、男たちから強い酒の匂いがした。


「飲み足りねえよ」

「『煙亭』行くか。俺はよ!」


 ひゃひゃひゃ、と乾いた空気に男たちの笑い声が響く。僕の足は自然と速まり、半ば駆けるように人の合間を縫って家に急いだ。


 酒場の二階。足を運ばない僕でも知っている。男たちが一階の酒場で酒を飲み、二階で女性を買う。女性が春をひさぐ、そういう場所だ。


 家に戻り、そのまま寝間の敷布の上に寝転がった。酒を飲みすぎたのか、少し頭が重く、体からすう、と熱が消えていくようだった。僕は吹きこんでくる乾いた風を頬に感じながら、アリージュと呼ばれていた彼女の井戸のような瞳と、肌の柔らかさを思い出していた。

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