カーニヴァルの乙女
高村 芳
第1章 砂嵐のように
1 砂漠の街
今日は一段と風が強く、辺りに砂塵が舞っていた。目を薄らに開けるだけで砂が粘膜を攻撃してくる。僕は首に巻いた布で口を覆いながら、故郷の方角を眺めた。砂塵の中で、もう何ヶ月帰ってなかったんだろう、と考えた。
故郷の石門をくぐり、街に入ると住人たちが出迎えてくれた。息子を抱きしめる老女、帰還を讃える役人、夫の胸に顔を埋める妻、離れていた間に生まれた赤子を抱く父親。みんなが無事を確認しあう中、僕はいそいそとその人の群れを離れ、無言で帰途についた。僕を待っている人はいないからだ。
家の戸を開けると、少し砂埃の香りがした。共用井戸から水をはこんで、水拭きをしなければならない。掃除のために乾ききった窓を開けると、遠くから人々の歓喜の歌が聞こえた。僕は錆びれたバケツを持って、井戸へ水を汲みにいった。
キャラバンの帰還が街にもたらすものは富だ。僕が生まれ育ったこの街は砂漠の旅の中継地点として栄えているものの、自給自足できるような土地ではない。商隊が持ち込む物資だけでは街の経済が滞ってしまうため、定期的に大規模なキャラバンを出すのだ。砂漠越えは一歩間違えると危険だが、人手不足のため子供でも参加できる。僕は一二歳のときから、キャラバンに出て生計をたてていた。もう四年になる。両親はキャラバンの途中、事故に巻き込まれて死んだ。遺体は戻って来ず、どこかの砂に埋められたと聞いた。
掃除が終わったのは窓の外がすっかり暗くなった頃だった。キャラバンが帰還した日の歓喜の宴は夜通し続く。僕は窓を開けたまま、街の中央広場を見つめていた。月は夜空の絨毯の上で煌々と輝いていたが、それよりも広場のランプのほうが輝いていた。昼よりも涼やかな乾いた風に頬をくすぐられた。風に乗ってきたのは、楽しそうな老若男女の声と音楽だった。
「腹へったな……」
自然と口に出た。キャラバンから戻った疲れで、市場に寄るのを忘れてしまった。キャラバンに出るときはいつも食べ物を空にしていくので、家には何もなかった。面倒くささと空腹を天秤にかけたが、胃は正直だった。だるい体を起こし、外行き用の布を体に巻き付けてランプの灯を落とした。
中央市場の周囲をかこむように夜店がいくつも並び、夜だと信じられないくらい人で溢れかえっていた。焼けた羊肉の香りや油で練られたスパイスの香りがどこかしこからも漂ってくる。広場の中央では楽団が様々な楽器を奏で、その音楽に乗って人々が手をとりあい、踊っている。そんな人々の間をすりぬけ、僕は夜店に並ぶ食べ物を順に見て回った。
「おお、サルファじゃないか」
突然後ろから声をかけられた。驚いてふりむくと、にかっと笑う馴染みの顔が合った。
「ブルジャーワシおじさん」
「おまえ、来てたのか。いつも帰還日は家で寝てるというてたから、驚いたぞ」
ブルジャーワシおじさんの歯が抜けたところから空気が漏れて、「シャシャシャ」と独特の笑い声になった。変わらない笑い方に、少し懐かしさを感じた。日に焼けたしわくちゃの顔はすでに赤く染まっていて、酒の匂いがした。
「久しぶりだなあ。おまえは熱心にキャラバンに参加するから、なかなか会わないなあ。元気そうで嬉しいよ」
シャシャシャ、と笑って僕の肩に手を置く。ブルジャーワシおじさんの眼には、僕と重なって父さんの顔が見えているようだ。
父さんとブルジャーワシおじさんは、かつて同じキャラバンに参加していた仲間だった。父さんのキャラバンが街に戻ってくると、僕も急い石門に走って行ったものだ。砂だらけの父さんに抱きかかえられると、隣にはいつもブルジャーワシおじさんがいた。僕が物心ついた頃から、ブルジャーワシおじさんの歯は一本なかった。
「あいつは月明かりすらない夜、ランプも点けないで用を足しにいって、転んで岩に顔を打ち付けたんだよ。そのときに、歯が折れたんだ」
父さんとブルジャーワシおじさんが一緒に酒を飲むと、いつも父さんはおじさんをそうからかっていた。その話を母さんと僕はいつも「また同じ話をする」と呆れていたものだ。そんな父さんも母さんもこの街にはいない。ブルジャーワシおじさんももうキャラバンからは引退していた。
「おじさんも元気そうで」
「おまえ食ってるのか? あっちの店に大ぶりで安い串焼きが売ってたから、いっぱい食べてこいよ。カジラニっていう男がやっている店だ」
五軒先の出店を指差してから、おじさんは僕の手に何かを握らせた。硬貨だった。一晩の飲み食い代はある。俺は驚いて、慌てて硬貨を返そうとするが、おじさんは頑なに受け取らない。
「おじさん」
「言うな言うな。久しぶりに同胞の息子に会えて俺は気分がいい。おまえにもマハブ神のご加護がありますように」
骨張った拳で額を二回叩き、お祈りをしてからブルジャーワシおじさんは歩いていく。俺がその背中に「ありがとう」と叫んだとき、おじさんの後ろ姿は雑踏の中へ消えていった。手のひらに残った硬貨は古いもので、端が削れて丸くなっている。俺はそれを握りしめ、先ほどから鳴っている腹をしずめるために歩き出した。ブルジャーワシおじさんに勧められたカジラニさんという人を探してみよう。そうあたりを見回した、そのときだった。
「きゃっ!」
背中にドン、と衝撃が走り、耐えきれず地面に前のめりに倒れてしまった。砂に眼をやられないよう固く瞑るが、口に入ってしまった。砂を吐き出していると、シャランと金属の擦れる音がして、背中には柔らかな感触がした。体を起こすと、俺の膝に乗っかっているのは深紅の布をまとった女だった。
(続)
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