【解放編】Goodbye Nightmare
《悪夢よ、さようなら》
館の玄関の前に、私たちは立っていた。
館は魔王の間として改造されたはずだけれど、戦いが終わったらそれは元に戻されて、私たちは再びあの忌まわしい館に戻された。ただし立っている場所は、いつの間にか玄関の前。
香狐さん曰く、一時的に小規模な世界の隔たりを形成しているから、玄関から出ないとワンダーランドから抜けることができないらしい。そういえばこの館に来た初日、みんなの魔法で脱出を試みたとき、謎の黒い断絶を目にしていた。それがどうやら、世界の隔たり――魔王が私たちを絶対に逃がさないために展開した、二重構造の外箱らしい。館に閉じ込められていたけれど、実はもう一つ、世界の隔たりという箱の中に押し込められていたというわけだ。
「もう鍵は開いているわ。鍵というより、ただ館スライムで塞いでいただけだけれど」
「…………」
私は、二枚扉の両方に手をかける。そんな様子を、みんなが見守っている。
……ここから出て、それからどうしよう。今は何も考えられない。こんな私が家族に顔向けできるだろうか。夢来ちゃんを、大切な友達を失って、これからの日常をどう過ごせばいいんだろう。
……考えて、生きるしかない。私も、償わなければならないのだから。
そう思いながら、二枚の扉を押し開けた。
――扉の先には、森が見えた。玄関に備え付けられた階段と、広い森。見覚えがあるような気がした。私はスウィーツに言われた任務――森の中に現れた、謎の屋敷の調査でこの館に来て、そして閉じ込められた。これはその時に通ってきた森だろう。
……遂に、外に出られる。だけどなんとなく怖くなって、私は何歩か下がって、みんなと同じ列に戻った。
「行かないのかい?」
「……怖くて」
ここにいるのも嫌だけれど、外に出るのも躊躇してしまう。本当に私はどうかしている。
なんて、沈んだ顔をしている中で、香狐さんが言った。
「ああ、そういえば、言い忘れていたけれど――外は今、午前五時頃よ。あなたたちがやって来た日の」
「……え?」
「この世界は、時間の進みが早いのよ。ほら。外の景色、ゆっくりに見えるでしょう?」
そう言われて外に目を遣ると、確かに、風に揺られる木々の揺り戻しが通常では考えられないほど遅い。
……じゃあ、私たちが閉じ込められていたことは、外ではたった一夜の出来事でしかないということなのだろうか。行方不明だなんだと騒がれることもなく、せいぜい夜の間遊び歩いていたのかと問い詰められるだけで終わり?
なんだか、それは……ここで経験した時間が否定されるようで、嬉しくもあるけれど、少し嫌だった。
「それと、私は一旦、ここに残るわ。外に出たとしても、別に私には帰る家があるわけでもないし――。自分がしたことの後始末もしなければならないから」
「……はい」
それは、そうだろうと思っていた。魔王にとっては、ここが帰るべき場所だ。
目を離すのは怖いけれど、私だって……自分の世界に戻らないといけない。四六時中、魔王を監視しているわけにはいかない。
「……はぁ。誰も行かないなら、僕が先に行くよ」
一番この館を嫌悪していた接理ちゃんは、やはり誰よりも早くこの館を出たかったようだ。香狐さんの言葉に耳も貸さず、接理ちゃんは開いた扉の先に悠然と歩を進めた。接理ちゃんが館と向こう側の境界線を越えた瞬間に、突然接理ちゃんの動きが緩慢になる。どうやら、接理ちゃんは本来あるべき時間の流れに戻ったらしい。
「後始末は、私に任せてくれればいいわ。もうこれ以上……あなたたちに迷惑をかけたりはしないから」
「……一つ問おう、魔王よ」
「何かしら?」
藍ちゃんが、香狐さんの瞳をまっすぐ覗き込む。
「此度のこと、我はスウィーツに報告するつもりだ。それは構わないだろうな?」
「……ええ。きっと、私の状態に関して、スウィーツは信じないだろうけれど」
「当然だ。魔王が贖罪を望んでいるなどと、誰が信じる。――貴様はそれだけのことをしでかしたのだ。その自覚はあるだろうな?」
「ええ、もちろん」
「ならば、信用を得たいのならば行動で示せ。我から言えることはそれだけだ」
藍ちゃんはそれを告げると、魔王に背を向け、館の外へと向かった。
藍ちゃんもまた、正常な時間流へと戻っていく。残ったのは、私と香狐さん、それと佳凛ちゃん……。
って、あれ。まだいると思っていたのだけれど、いつの間にか佳凛ちゃんもいなくなっていた。
……本当に、最後まで行動の読めない子だ。
「…………」
「…………」
香狐さんと二人きりになって、気まずい沈黙が流れる。
私はこの人に対して、どう接すればいいのわからない。今朝目覚めるまでは、とても大切に思っていた相手。【真相】を知って嫌悪と軽蔑を抱いた相手。だけれども、死までは願えず、贖罪の道に引き込んだ相手。
私もまた罪の意識を抱えている。その点で言えば仲間でもある。
「……彼方さん」
「は、はい」
名前を呼ばれて、思わず警戒してしまう。
香狐さんはそれに、寂しそうな顔をした。……新しく生えた尻尾も、心なしか下がっている。どうやら、随分わかりやすい人になったらしい。
「ごめんなさい。私は、あなたを……たくさん傷つけたわ」
「……どうして、謝るのは私だけなんですか?」
香狐さんの謝罪に、私は皮肉のような言葉しか返すことができない。
だけど香狐さんは、私の言葉に素直に苦い顔をした。
「……他の人にも、謝らなければならないのはわかっているわ。謝ってどうにかなることではないというのも。ただ……魔王が何を言っているのかと思うかもしれないけれど、その、言う勇気が出なくて」
「…………」
やはり香狐さんも、贖罪という行為に戸惑っている。今の言葉でそれを察する。
多少関係性のある人に謝るのは容易いけれど、よくわからない人、ましてや怒りやすい人に謝るのは躊躇してしまう。そんなただの人間のようなことを、魔王が思っているのだとしたら……。
「卑怯とは、わかっているのだけれど。彼方さんなら、その……言えると思ったから」
「……そうですか」
「ええ。……私は、それが償いになるなら、なんだってする用意があるわ。だから、彼方さんは……私に何か、してほしいことはないかしら?」
「…………」
私は、何か願いを言うべきだろうか。
確かに償いの形として、物を用意する、あるいは行為で返すというのはわかりやすい。普通の犯罪に対しても、罰金や懲役という形でシステムに組み込まれている。
だけどそれを許容してしまうのは、形ばかりの贖罪にもなり得てしまうのではないか。お金を払ったから、指示されたことをやったから、それで償いはおしまい。そう考えてしまうのは、あまりにも卑怯だ。それじゃあ、罪を犯したとしても、お金で帳消しにしてしまえることになる。贖罪というのはそういうものじゃない……と思う。
だったら……。
「――――」
私は少し考えてから、自分の望みを香狐さんに告げた。
香狐さんは、それを聞いて少し呆然とする。
「……そんなことでいいのかしら?」
「……これで、あなたを許すことにはなりませんけど」
「いえ。いいわ」
香狐さんは、私のお願いに対して頷いた。
それじゃあ、もう……ここで話す意味もない。
私も、香狐さんに背を向け、境界線の一歩手前まで歩み出る。そうしてから、改めて振り返る。
「それじゃあ、香狐さん……私も行きますね」
「……ええ」
劇的な別れにはならない。もう、そんなことをする関係性ではなくなった。
だから私は、手も振らずに、ただポツリと呟いた。
「……さようなら」
一歩、二歩、外の世界に踏み出す。
時間の流れが違うからだろうか。香狐さんから何か言われた気がしたけれど、何を言っていたのかは全く聞き取れなかった。
私は振り返らず、館を去る。
館から十分に離れたところで、顔を上げる。
この館は森の中の開けた場所に建てられていて、周りを木々に囲まれている。
風が強く吹いて、葉を茂らせた木々を揺らした。折れてしまいそうなほどにその身を傾けつつも、木々は必死に強風に抗っている。やがて風が止めば、多くの葉を失いながらも、木々は元のようにまっすぐに戻っていく。
ふと、暗い世界がゆっくりと明るくなる。
見れば、遠くの稜線がうっすらと白みだしていた。夜明けの時だ。
私は目を細めて、昇りゆく太陽の方を眺めて、そして――。
ゆっくりと、肺に溜まった夜気を吐き出した。
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