You are murderer, right?
《あなたは殺人鬼、そうでしょう?》
――ごめんなさい。私はまだ、気分が悪いから……。
そう言う香狐さんと分かれ、一人、廊下を歩く。
一人にしてよかったのか、という思いはある。実際に私は反対した。けれど香狐さんはやっぱり、その場を動けそうにはなかったらしい。私は香狐さんもどうにかして連れ出そうとしたけれど、香狐さんの言葉でそれは中止せざるを得なくなった。
『時間を無駄にしたらどうなるか……わかっているでしょう?』
タイムリミットを迎えれば、私たちは最悪の結末を迎える。それだけは何としても避けなくてはならない。
だから私は、可能な限りの対策を残して、香狐さんの部屋を後にした。
そもそも今は【真相】の究明中であり、殺人が禁じられている時間。加えて、香狐さんの存在は魔王にとって、失ってはならないものだ。となればこの時間、香狐さんは魔王に守られているはず。……全く姿を現さない、魔王に。
しかし魔王を信頼して香狐さんの守りを任せるなんて、冗談じゃない。だから更に、いくつも対策を重ねた。クリームちゃんが『気づいたら廊下にいた』という現象については未だ何もわかっていないけれど、とりあえず香狐さんがクリームちゃんを抱いて、離れないようにした。そして灯りを常夜灯のみにして、誰かがドアを開けたり壊したりすれば、漏れる灯りですぐに気づくことができるようにした。もちろん、ドアに鍵はかけている。さらに香狐さんは、武器――包丁を持って待機している。そんなものが部屋の机の引き出しから出てきたときは驚いたけれど、香狐さん曰く、護身用に一本だけ仕込んでおいたらしい。一瞬、香狐さんを襲った凶器はそれではないかと思ったけれど、その包丁に血はついていなかった。
ああ、そういえば――私たちが目を覚ましたのは、香狐さんの部屋ではなく私の部屋だった。おそらくは、私たちが気絶している間に誰かが運んだらしい。誰か、といっても……もう、三人しか残っていないけれど。
香狐さんは、元の部屋に戻った。その際、香狐さんの部屋の様子を確認した。
部屋には、血痕を除いて、特に変わった様子はなかった。凶器と思われる包丁も、その場にはなかった。
ベッドの血痕は大きなシミとなって広がっている。ベッドの中央辺りと、その少し上。たぶん前者が胸を突かれた血痕で、後者が背中を突かれた血痕。掛け布団には刃物が貫通したような跡が二つあり、それと共に血が染み込んでいたことから、香狐さんはベッドで寝ているところを【犯人】に襲われた。これはおそらく間違いのない事実だ。これで背中と胸を突かれたなら……寝る格好的に考えても、まず胸を刺され、痛みにのたうっているうちにうつ伏せとなり、再度刺されたという形だろうか。
もう一か所、血痕は床にあり、ベッドの傍からドアのところまで線の形で伸びている。たぶんこれは、クリームちゃんや私の呼びかけに香狐さんが応えて、ドアまで這いずってきた跡だと思う。
部屋の様子が通常と異なっていたのはそれだけだ。他は、わかりやすく異なっている点はどこにもなかった。
香狐さんを襲った【犯人】も、絶対に見つけ出さないといけない。だけど、香狐さんが襲われた件は、この館のルール上は何の意味もない出来事でしかないから……。今だけは、起きてしまった殺人の【真相】究明に注力するのを、許してほしい。
その過程でもしかしたら、香狐さんが襲われた謎だって、解けるかもしれないから……。
覚悟を決めてなお、言い訳めいた言葉を心中で転がしながら、私は三階廊下を歩く。一歩、一歩、階段に近づく。一段、一段、階段を下る。
時間を無駄にしてはいけないのはわかっているのに、走れなかった。歩みを止めないこと以上に、急ぐことができなかった。
何度も、心中で彼女の死を確かめた。その事実を呑み込んだつもりだ。
だけどどうしても、直接彼女の死に触れに行くとなると、気後れしてしまう。
一階に近づくごとに、足元がふらつくような、世界が揺れるような感覚を覚える。異界に迷い込むかのように、自分の感覚の全てが狂っていく。本当に私は現実に存在しているのか。そんな当たり前のことすら問い直したくなるような、五感の調律の乱れ。
内心の拒否感は、感覚器への反逆として現れる。一種の拒絶反応でもって、私をあの場所から遠ざけようとする。
――それでも。不快な感覚に抗いながら、私はようやく一階に辿り着く。
ここまで来てようやく、私の体は私の決意を理解したのか。拒絶反応が解除されて、だんだんと五感が正常な状態へと回帰していく。それでも、頭が割れるように痛い。寝不足の頭を強制的に覚醒させるような鈍痛に顔をしかめるけれど、おかげで必要なだけの集中力を確保できている。
私は激情と虚無感を押し殺しながら、つい何十分か前に訪れた場所へ向かう。
屋内庭園――昨夜の密会、そして今日の地獄の始まりの場所。
そっとドアを開くと、偽りに満ちた花畑から本物そっくりの香りが漂ってくる。白々しく鎮座する偽の花々と木々。風もないこの部屋では、入り口に立ち尽くす私のように、花びら一枚だって微動だにしない。
……ここまで来てなお、躊躇する。進みたくないという意思が、決意を凌駕しようとする。でも、それじゃあ……誰も救えない。
覚悟に最後の後押しを添えて、私は屋内庭園の中に踏み出した。
屋内庭園には、噴水の音を掻き消すような声が響いている。
「ならば、考えられる可能性は一つしかないだろう」
「……はっ。まあ、筋は通っているね」
「んー。でも、なんか……んー?」
三人分の声。藍ちゃん、接理ちゃん、佳凛ちゃん。
花々の陰に身を隠して、そっと三人の様子を窺う。三人は屋内庭園中央の広場のような場所に――もっと言えば、噴水の傍で話し込んでいた。
三人とも、この十数日ずっと見てきた魔法少女服に身を包んでいる。それはつまり、クリームちゃんが本当に、香狐さんを襲った【犯人】を目撃していないということを示していた。
……そうだ。ここからなら、三人の傷を確かめられるかもしれない。
香狐さんが【犯人】につけたという、引っ掻き傷。確か第三の事件でワンダーは、敵意であっても私の魔法によって定義された悪意に含まれると言っていた。であるならば、自分を襲ってきた相手への敵意でつけたこの引っ掻き傷は、私の魔法の条件を満たしている。
また、気絶してしまうだろうか。……いや。引っ掻き傷を治す程度だったら、ギリギリ持ってくれるはずだ。そう信じて、魔法を構築しようとする。
「……ぇ」
しかし、どうしたことだろう。
藍ちゃんを対象に発動しようとした私の魔法は、構築に進む前に、発動条件を満たしていないという感覚を残して消失した。
【犯人】は、藍ちゃんじゃない……?
それならと、私は他の二人にも魔法を使おうとする。なのに――。
接理ちゃんも、凛奈ちゃんも。どちらも、引っ掻き傷なんて持っていなかった。私の魔法は何の意味も成さないどころか、発動すら許されないという結果に終わった。
――どういうこと? 香狐さんが嘘をついた? そんなはずはない。彼女に嘘をつく理由はない。空澄ちゃんのように、自分が襲われたと偽装することだって不可能だ。背中にあったナイフの傷は、どう考えても自分でつけられるものじゃない。
だから、考えられるとすれば……。可能性は一つしかない。
傷を消せる魔法を持った人が、香狐さんを襲った【犯人】だった。そして、そんな固有魔法を持つ唯一の魔法少女は――。
「…………」
私は隠れるのをやめて、三人の前に姿を晒した。
藍ちゃんが気づいたのを皮切りに、全員の視線が私に向けられる。
そんな三人の視線をまるっきり無視しながら、私は覚悟を決めて噴水の上を見る。
……その光景はやっぱり、気絶する以前と何も変わっていない。
干からびている状態だけは、私の魔法で解除した。だけど死という境界線は、私の魔法では跨がせることができない。
だから……艶のある肌を取り戻していても、その悪魔は紛れもなく、ただの死体だった。
胸の痛みが再来する。口の中に苦味を感じる。
悲嘆を込めた眼差しで彼女の亡骸をしばらく見つめていた。
それを中断させたのは、剣呑な雰囲気を醸す【無限回帰の黒き盾】。
彼女は、低い声で言った。
「ふん。わざわざ、戻ってきたのか。――この悪魔を始末したのは、お前だな?」
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