I'm glad to meet you.

《あなたに会えてよかった。》




 沈黙が場を支配する。

 静寂の中、噴水が奏でる優しい音だけが鼓膜を震わせていた。

 パラパラと水面を打つ飛沫の音。ピチャピチャと滴る雫の音。サワサワと耳をくすぐる水流の音。

 どれも、あまりにこの場所に似つかわしくない優しさをたたえた音だった。


 ……それが、嫌になる。

 殺し合いの中で穢れてしまった自分が露わになるようで。

 私が依存する相手もここにはいない。ここにいるのはただ、私と同じように、不安定さを抱えた一人の――。ううん、一匹の魔物だけ。


「……わたしが教えられることは、たぶんこれで全部」


 ポツリと、夢来ちゃんが呟いた。

 その言葉もまた、噴水が奏でる旋律に溶けていく。

 しばらくまた沈黙に陥ってから、夢来ちゃんは再び口を開く。


「……どう思った?」


 不安さを隠そうともせずに、恐る恐るといった体で訊いてくる。

 どう思うか。夢来ちゃんを、裏切り者だと感じるか?

 ――違う。そうは思わないから、私はここに来た。事実、夢来ちゃんの話を信じるなら、全部全部魔王のせいだ。

 何もかも魔王が悪い、なんて理屈は通じないかもしれないけれど――。

 でも、そう主張したかった。何もかも、魔王が悪い。こんな殺し合いを仕組んで、あまつさえ夢来ちゃんを操って――。


「……よかった」


 夢来ちゃんが、安堵の吐息と共に言う。

 その瞳は躊躇いがちに私に向けられていて、つまり、夢来ちゃんは私の内心をまたも正確に読み取ったようだった。

 その視線を受けて、私もしばし夢来ちゃんを見つめる。

 夢来ちゃんは何を考えているか? ――わからない。まるで異次元の生命体のように、こんな場所のこんな場面でも、夢来ちゃんは小さく微笑んでいる。その精神性が理解できない。

 私が夢来ちゃんを裏切り者と罵らなかったことに安堵している? それもあるかもしれない。だけど、それだけじゃないような、どうにも恐ろしい隔たりを感じる。

 夢来ちゃんの背景は、依然としてほとんど理解できていない。

 そもそも私は――私たちは、魔物というのが何なのか、大して理解せずに討伐している。スウィーツに求められるままに、人に仇なす魔物を狩る。

 だから――今まで知らないでいたせいで、この肝心な場面で、彼女の感情を読み取ることができない。


「夢来ちゃんは……」

「ん? ……なに?」

「…………」


 言葉が出ない。

 夢来ちゃんの過去を知った。事情を知った。でも、その存在は欠片も理解できない。

 信じられるのは、ただ一点。

 夢来ちゃんが今でも、私を想ってくれていること。

 ただそれだけを信じて、言葉を選んで、たどたどしく紡ぐ。


「これから……どうするの?」

「――、わからない、かな」


 夢来ちゃんは一瞬間を置いて、言葉を選んでいるような仕草を見せながら言う。

 確かに――愚問だった。魔物は、魔王に操られる存在。であるならば、ここで夢来ちゃんが何を言ったところで……魔王はそれを捻じ曲げることができる。

 彼女の意思なんて、完全に無意味だ。魔王という、絶対存在が君臨している限り。

 その魔王は依然として、夢来ちゃんを操り続けている。きっとワンダーが――卑劣にも自身の死を偽装した魔王が、今もどこかの植物の陰から私たちを見張っているに違いない。


 不意に、夢来ちゃんが立ち上がった。

 何をするのかと、身構えてしまう。

 ……その警戒の意味もなく、夢来ちゃんはただ、噴水の水を手で掬った。そしてその水で顔を洗う。

 パーカーの袖で、夢来ちゃんは雑に水滴を拭った。顔にはまだ、水滴がたくさん残っている。


「……私がどうするかは、言えないけど」


 水滴が、涙のように夢来ちゃんの頬を流れ落ちる。


「これから……どうするべきかは、言えると思う」

「……え?」

「バレる前に、急いで言っちゃうね」


 夢来ちゃんは、サッと周りを見回す。それにつられて、私も周囲を確認した。

 すると、赤銅色の小さな影がこの場から走り去っていくのが見えた。

 あれは……ネズミ? そういえば、この館に来てから一度だけ、ネズミを見たような気がする。

 そう。確か、監視用の魔物だったはずだ。ワンダーが放った……。

 ――少し、違和感を覚えた。何だろう。何か、おかしい、ような……。

 その違和感の源を特定する前に、夢来ちゃんが語りだす。


「今残ってる人たちはみんな、どこかおかしくなっちゃってる。神園さんは、恋人を無くして何もかもどうでもいいと思うようになってる。……魔王への恨みを除いて。でも、それじゃダメ。魔王の思う壺。どうにかしないと、たぶん……」


 夢来ちゃんはそこで言葉を切った。


「唯宵さんは……わたしのせいでもあるけど、疑心暗鬼に陥ってる。それと、不安もあるんだと思う。……今日、彼方ちゃんが言ってた通りに」

「……っ」


 どうやら……朝の一件でのやり取りは、聞かれていたらしい。

 それもそうか。私たちは、夢来ちゃんの部屋の前で言い争っていたんだから。


「……明日、それが最高潮になると思う。きっと……あることが原因で、彼方ちゃんと唯宵さんは敵対する。でも……その先で、――」


 突然、夢来ちゃんの口の動きに、音が乗らなくなる。


「……ごめん。ここまでみたい」


 夢来ちゃんは苦虫を嚙み潰したような表情を見せた後に、申し訳なさそうに言う。

 ……どうやら、魔王に露見して、止めさせられたらしい。さっきのネズミが、ワンダーに報告したのだろうか。


 夢来ちゃんが喋ろうとした、これからどうすべきか。

 接理ちゃんに関しても、藍ちゃんに関しても、どちらも中途半端なところで言葉が切られてしまった感が否めない。それとも、魔王に禁止されていることに抵触しない範囲で話そうとしてくれたせいなのか。

 どうにも、確定的なことは何一つとして聞けなかった。

 だけど、夢来ちゃんの話だけで判断するなら……私たちは、正気を取り戻して、団結しないといけない。そういうことなのだろうか。


 この館で魔法少女が一致団結したことなんて、一度もなかった。佳奈ちゃんや凛奈ちゃん、空澄ちゃんは好き勝手に動き、秩序を作った人間は最初に殺人を犯し――。死の連鎖の中で、私たちの関係性は更に遠くなっていった。

 全てを疑わなければどうにもならない、この館のルールのせいで。

 それが、今更……。どうなるというのだろうか。

 接理ちゃんにとって私は、恋人を死の淵に追いやった相手だ。藍ちゃんにとって私は、異端の存在に信頼を置く背信者だ。佳凛ちゃんにとっての私は……ただのどうでもいい相手だ。

 香狐さんだけが唯一、私の味方をしてくれる。そんな状態でどうやって、団結なんてできるというのか。

 私は、黒い感情に沈む。この館での生活が始まって以来、徐々に私を侵蝕してきた悪感情。それはいつの間にか、当たり前と思えるレベルにまで侵入してきている。


「……でも、彼方ちゃんのことなら、言えるかも」


 澱みに嵌まりかけた思考を引き上げられる。


「私の、こと……?」

「うん。……彼方ちゃんが、どうすべきか。別に、この言葉は忘れてくれてもいいんだけど」


 夢来ちゃんは息を吸い、一拍置いて――。


「きっとまだ、辛いことが続くと思う。それでも、彼方ちゃんは、自分が正しいと思うことをして。……人が死んじゃったら、後からじゃあもうどうしようもないけど。それでも、それを受けてどうするかくらいは、私たちにだって選べるはずだから」

「…………」


 後から、どうするか。

 私はそれをずっと考えてきた。ずっと考えて、正しいと思うことをして、そして間違えてきた。既に二人を不当な裁判で処刑台に送り、そして一人の自殺を推し進めた。私は既にどうしようもないことをしでかしてしまった。

 それらはもう、どうやっても取り返すことができない。

 今でも、思っていることはある。私が正しいと思う道は、一つだけある。

 だけど、それがまたただの思い込みだったら? 大いなる勘違いで、また誰かを死なせることになったら? それが私には、耐えがたい。

 夢来ちゃんの言葉にどう反応すればいいのかわからず、私はそっと目を伏せた。


「魔物の――あの魔王と同類の私が言っても、虚しい言葉だと思うけど」


 夢来ちゃんは、寂しそうに笑った。

 それから……どうしてか、もう一度噴水の水で顔を洗う。


「ごめん、今日はここまで」

「……え?」

「やらなくちゃいけないことがあるの。だから、もう……」


 夢来ちゃんは、唐突にこの時間の終了を告げた。

 ツッ、と、水滴が彼女の頬を伝う。さっき、顔を洗ったときのものだろうか。

 ――でもどうしてか、私はそれが、彼女自身の涙のように思えた。

 それで思わず、別れを惜しんでしまう。


「夢来ちゃん……」


 手を伸ばしかける。

 ――しかしその手は、すぐに引っ込められることになった。


「来ないでっ」


 夢来ちゃんを守るように、四方八方からスライム状の触手が飛び出す。

 彼女の悪魔の羽もまた、威嚇するように大きく広げられる。

 その光景に、どうしようもない隔たりを覚える。……どんなに、彼女を大切に思っても。彼女はやっぱり、魔物でしかない。


 そうとわかってなお、私はしばらく躊躇し続けて――。

 夢来ちゃんと目を合わせては逸らし、何度もそれを繰り返して、ようやく別れる決心がついた。

 ベンチから立ち上がり、夢来ちゃんに背を向ける。


「――明日の朝、一人で、もう一度ここに来て。待ってるから」


 去り際に、そう告げられる。

 振り返る。夢来ちゃんは、私に向けて小さく手を振っていた。


「……じゃあね」


 私は言葉を返せずに、夢来ちゃんにもう一度背を向けて、屋内庭園を去った。

 ポケットの中で、夢来ちゃんに渡された宝石の角が肌に刺さって、痛かった。

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