Pink pool and Dog statue

《ピンクのプールとイヌの像》




 ――ピッ、ピッ、ピッ。

 機械的なアラーム音が鳴り響く。

 それに鼓膜を揺らされて、安らかな微睡みに影が射す。


「ほら。彼方さん、朝よ?」

「……んぅ」


 既にベッドの上で身を起こしていた香狐さんに揺らされる。

 それで、二度寝しかけた意識がようやく覚醒へと向かい始める。


「ふぁ……。おはようございます……」

「おはよう、彼方さん」

「はい……。――ん? あれ? どうして香狐さんが……」

「ふふっ、ぐっすり寝られたようで何よりよ」


 そう言われて、昨日のことを思い出す。

 そうだ。香狐さんと一緒に寝たんだった。起き抜けだったから、変な反応をしてしまった。

 ――言われてみれば、今までで一番よく寝られたかもしれない。

 おかげでまだ頭がぼんやりする。


「ほら。みんなの分の食事を作らなきゃいけないでしょう? そのままだと、また寝ちゃうわよ」

「はい……」


 私はふらふらとしながら、ベッドから下りた。

 続いて、香狐さんもベッドから下りる。


 ――今日はそんな、何気ない一幕から始まった。




     ◇◆◇◆◇




 香狐さんと二人並んで階段を下る、その直前。


「今日は――」


 どんなご飯にしますか、と尋ねかけたところで、視界の端に誰かの後ろ姿を捉える。

 私たちが来た廊下とは、館の中央を挟んで反対側の廊下に消えていく人影。

 あの赤毛……摩由美ちゃん? でも、いつもはフードを被っているはずじゃ……。

 そんな疑問を覚えるも、服装を確認する前に、


「彼方さん? どうかしたかしら?」


 香狐さんに呼び戻される。

 私は視線を香狐さんに引き戻した。


「あ、いえ。今日のご飯、どうしますか?」

「そうね……。やっぱり定番の焼き魚でも用意しようかしら? それとも、いっそ手抜きで卵かけご飯でもいいかもしれないわね」

「……そういえば最近、卵かけご飯とか食べてなかったです」

「そう。なら、今日はそれにしてみる?」

「でも、流石に手抜き過ぎるんじゃ――」


 話しながら、もう一度振り返ってみる。

 既に、あの人影を見つけることはできなかった。

 ただ代わりに、それとは別のことを思い出す。


「あっ。佳奈ちゃんと凛奈ちゃんのお皿、回収しないと……」


 結局昨日の夜まで手を付けられていなかったので、そのまま放置したのだった。


「ごめんなさい。ちょっと取ってきます」

「ええ、わかったわ」


 階段を少し戻って、お皿を回収しに行く。

 ご飯は相変わらず、手の付けられないままで部屋の前に置いてあった。

 だけど、昨日見た位置よりちょっと移動している気がする。

 ……食べようとして、やっぱりやめた? それとも、わかりづらいだけで、ちょっとは食べてくれたのかな?

 どちらにせよ、十分な量食べてくれたわけではないようだ。だけどこの食事はもう食べない方がいいだろう。作ってから半日くらい経ってしまっている。

 そう思って、色々なものが残ったままのお盆を持ち上げる。


 佳奈ちゃんと凛奈ちゃんの部屋のドアを見つめる。

 ……ノック、してあげた方がいいだろうか。

 夜のうちに、もしかしたら何かあったかもしれない。

 だけど、佳奈ちゃんは――昨日、入ってきたら殺すとまで言っていた。

 中にいた二人はきっと、怯え続けて夜を過ごしたことだろう。

 そこに刺激を加えたら、どうなるか――。


「…………」


 私は目を閉じてそのドアから顔を背け、お盆を持って香狐さんのところへ戻った。

 そうして、香狐さんと話しながら厨房へ赴く。

 お盆の上の物を落とさないように気を付けながら、ゆっくり。

 香狐さんにドアを開けてもらって、厨房に入る。


「ふぅ……」


 お盆を安定したところに置いて、ようやく一息つくことができた。

 ――ところに、轟音が降り注ぐ。


 ゴオオオォォォォォォォォォン…………。


 重低音が、足元を揺らす。――違う。物理的に揺れている。

 音は一回限りで、じきに余韻を残して消えていく。


「えっ!? な、なに……っ!?」

「これは……何の音?」


 二人して驚いて、辺りを見回す。

 音は、遠いような気がした。少なくともこの厨房や食堂、屋内庭園から発せられた音じゃなかった。

 轟音というと、最初の事件を思い出すけれど――あれとは違う。

 あれは爆発音だ。対して、今感じたのは……衝撃音、だろうか。


「――見に行った方がよさそうね。急ぐわよ」

「は、はいっ」


 慌てて厨房を飛び出す。

 食堂の方は無視して、玄関ホールの方向に走る。


「音は……何階からかしら」

「わ、わかりません……。そもそも、なんの音かも……」

「そうね。こんな音を立てるようなもの、なかったはずだけれど」


 大きなものが落ちたような衝撃音。

 そんな音を響かせるようなものは、この館にはなかったはずだ。


「とりあえず、一階を探してみましょう。本当は二手に分かれたいところだけれど……。これが事件の前触れか、あるいは事件そのものの音なら、一人で歩くのは危険よ。【真相】の究明が始まる前に【犯人】に殺されてしまう可能性は、十分あるもの」

「そう、ですね……」


 ルール上禁止されているのは、【真相】を究明している最中の殺人のみ。発見前なら、その限りではない。

 だから私も、この状況で一人で歩き回りたくはなかった。

 ――こんな異様な音、事件でもないならあり得ない。

 私は既に、そう考えてしまっている。


「とりあえず、手前の部屋から順に見ていきましょう。まずは――」


 と、香狐さんが言いかけたところで、廊下の奥におかしなものを見る。

 私たちはみんなより早く起きて朝食の準備をしているのだから、この時間帯はまだ誰も起きていないはずだ。それなのに、廊下の突き当りに人が立っていた。

 怯えた様子で、突き当りの部屋から出てくるのは――。


「あれは、雪村さん? ……濡れてる?」


 私たちは、その子に駆け寄った。

 近づいてみて、すぐにわかる。

 彼女は全身濡れていた。まるで服を着たままお風呂にでも浸かったかのように。

 その上、左腕を痛そうに押さえている。血は……流していないようだ。

 でも、何かがあった。それを確信させられる。


 だけど――すぐにはわからなかった。

 彼女が、佳奈ちゃんなのか、凛奈ちゃんなのか。

 いつも通りの白を基調としたセーラー服は姉妹共通のもので、判別の役には立たない。

 二人を見分ける決定的な点であるワンサイドアップはほどかれ、特定を困難にしている。

 怯えるその様子は、凛奈ちゃんのように思える。だけど――。


「こ、来ないで!」


 叫びを上げるその態度の強さからは、佳奈ちゃんのようにも思える。


「か、に近寄らないで!」


 彼女は――佳奈ちゃんは、自分から正体を明かす。

 だけど、近寄らないでと言われても無理な話だった。

 彼女の姿は、被害者のようでもあり、加害者のようでもあり。

 つまるところ、さっきの轟音と何か関係あるとしか思えなかった。


「雪村さん、何かあったのかしら?」

「な、なんでも……。なんでもないから!」

「……そう。そう言うなら申し訳ないけれど、捕まえさせてもらうわ」

「なっ……。ちょっと、放して!」


 もちろん香狐さんは、なんでもないという言葉を信じず、佳奈ちゃんの腕を掴んで拘束した。


「彼方さん、浴場そこが怪しいわ。私はこの子を押さえているから、調べてきてもらえるかしら?」

「は、はいっ」


 香狐さんに言われるまま、佳奈ちゃんが出てきた場所――浴場へ足を踏み入れる。

 まずは脱衣所。……濡れた足跡がある。おそらくはさっきの佳奈ちゃんのものだ。

 だけど、他に異常らしい異常はない。脱衣所の籠がちょっと不揃いになっているとか、そのくらいだ。誰かがこれを利用した時、ズレたまま放置しただけだろうと思う。

 異変があるとすれば……お風呂場?


 そう思った私は、脱衣所とお風呂場を仕切るガラス戸に寄った。

 そして――それを見る。


「……えっ?」


 お風呂が、ピンクに染まっていた。

 普段は透明感のある水が占める広いお風呂が、くすんだピンク色に。

 でも、私が一番驚いたのはそこじゃなかった。


 お風呂に、犬が入っている。

 ただの犬じゃない。石像だ。いぬの像。

 それがお風呂のど真ん中に堂々と鎮座している。石像の四角い台座と、更には魔法陣の一部が切り取られた楕円状の床まで伴っている。


「な、なに、これ……」


 おそるおそる、お風呂場に足を踏み入れる。

 お風呂場は、水で溢れていた。石像の台座の体積が、お湯を押しのけたのだとすぐに理解する。

 頭上を見ると、儀式の間の床が、楕円形にぽっかり抜けていた。


 対する地上、くすんだピンクのお湯の中を覗く。

 すると、とあることに気が付いた。

 ピンクのお湯の中心点。石像の台座周りの色が、いっそう濃くなっていた。

 そう、それは喩えるなら、血色の赤。

 それがだんだんお湯に溶け出して、そして、ピンク色の原材料になっていく。


 ようやく鼻が認識する、血濡れた惨劇の匂い。


「……え。ま、まさか……」


 理解する。

 惨劇があったとして、その死体はどこへ行ったのか。

 猛々しい狗の像は、黙して語らず。しかし何もかもが雄弁に、それを示していた。

 あまりにも残酷な、被害者の末路。


 ――石像の足元。それが、誰かもわからない被害者の居場所だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る