My soul is being eroded by something.

《私の魂が何かに浸食されてゆく。》




 浴場。ゆったりと優しい雰囲気のある、檜風呂。

 この館で唯一と言っていい、精神的な休養施設。

 一日に一回だけ許されるその休養の場に、私はいた。


「はぁ……」


 今日一日分の疲れを吐き出すつもりで、湯船に浸かってため息を吐く。

 こんな仕草を大仰にしていられるだけでも、一昨日ほど酷い状態じゃないわけだけれども。それでも、ため息を吐かずにはいられなかった。

 あの後結局、ワンダーは私たちが監視することになった。

 空澄ちゃんの思い通りにさせることに狼花さんは腹を立てていたけれど、でも、ワンダーを閉じ込めているという状況は好ましかった。

 ……ワンダーを一体だけ閉じ込めたところで、本人が言う通り何にもならないのだけれど、安心感は全然違った。


 私たちはワンダーに抗するための行動をしている。

 実際、ワンダーの一体を行動不能にしている。

 そんな優越感は、私たちに僅かながらの慰めを与えた。


 ……最低な気分だった。

 やっていることは、ワンダーと変わらない。

 意に反して相手を閉じ込め、悦に浸る。

 そんな最低な行為を受容しようとしている自分に、嫌悪感が湧き上がった。

 だけど私はその嫌悪感を押し隠して、全員での監視を提案した。

 その方が……殺し合いの抑止に繋がると思ったから。


「彼方さん、随分お疲れね」

「わっ」


 突然、お湯が揺れた。

 香狐さんが近くに寄ってきたせいだった。


「あら? どうかしたかしら?」

「いえ……」


 近くに寄られて、改めて思う。

 やっぱり、香狐さんは綺麗な人だ。

 何一つ纏うものがなくなったお湯の中だと、その美しさが脚色なく伝わってくる。

 濡れ羽色の髪、薄い微笑み、そしてその肉体の造形美。

 女の私でもクラリと来てしまうような、圧倒的な美しさがそこにはあった。

 ただ……一つ気になる。


「あの、前から思ってたんですけど……。お風呂にまでクリームちゃん連れてくるんですか?」

「ええ。私の可愛いペットだもの」


 香狐さんが、いつもの仕草でクリームちゃんを撫でる。


『きゅー』


 お風呂の湯気のせいか、クリームちゃんはいつもの二割増しでへにょんとしている気がする。

 垂れかかっているクリームのような、そんな印象を抱かせる。


「あっ、でも、違うわ。彼方さんのことは可愛いと思っているけれど、ペットにしたいとか、そんなことは思ってないのよ」

「そこは勘違いしてないから大丈夫です……」


 私もまさか、人相手にペットになるような未来があるとは想定していない。

 でも……。今の言葉で、香狐さんが向けてくれている気持ちの一部を実感する。

 どうしてここまで、香狐さんが気に掛けてくれるのか。私自身、その理由はわからない。放っておけないからとか、可愛いからと言っていたけれど、本心からの言葉かどうかはわからない。

 もしかしたら、以前にも香狐さんと会っていたんじゃないかって、そんなことも考えてしまう。でもいくらなんでも、こんな綺麗な人のことを忘れるなんてことはないと思う。

 だったら……本当に、ここでの五日間で気に入られたのだろうか。


「あ、あの、彼方ちゃん」

「ん? ――あ、夢来ちゃん」

「えっと……隣、いい?」

「うん」


 取り留めのないことを考えているうちに、夢来ちゃんも浴場にやって来た。

 肩が触れるほど近くまで寄ってきた香狐さんとは違い、夢来ちゃんの寄り方は幾分か控え目だった。少し空間を開けて、私の隣に来る。

 チラリと横に目を遣る。


「……ねぇ、夢来ちゃん」

「ん? なに?」

「いや、その……羽と尻尾は取れないんだよね?」

「う、うん……」


 夢来ちゃんが頷く。

 夢来ちゃんの魔法少女のコスチュームは、下着同然の格好と、後は悪魔っぽい羽と尻尾。衣装の方は普通に脱ぎ着することができるのだけれど、羽と尻尾はそうもいかないらしい。

 変身時は完全に体にくっついてしまっている。なんなら、羽も尻尾も、たまに動いている。

 確かに、着脱可能な羽と尻尾っていうのはどうかと思うけど……。

 でも言わせてもらえるなら、今の夢来ちゃんはすごく、魔物っぽかった。

 サキュバス。伝承に語られる……というか、最近は創作界隈でよく見るあれに似ている。

 夢来ちゃんの豊満な胸と合わせて考えると、もうそうとしか思えない。


「…………」

「えっと……何か、変?」

「変っていえば、まあ……魔法少女でそのコスチュームっていうのは、割と変なんじゃないかな、って思うんだけど」

「あぅぅ……」


 自覚はあるようで、夢来ちゃんは縮こまってしまった。

 けれど、最近の創作界隈では、魔法少女も割とダーク系の衣装が増えてきたりしているらしいし……。現実の魔法少女コスチュームにもそんな流れが来ているのかもしれない。

 私はなんとなくそう思った。

 ……お風呂に入ると、やっぱり取り留めのないことばかり考えてしまう。

 まあ、今の絡まった状態に頭を悩ませるよりは、よっぽどいいんだけど……。


「ところで、彼方さん」

「なんですか?」

「いえ。最近、桃井さんと何かあったのかしら?」


 香狐さんが首を傾げる。


「えっ」

「あー、えっと……」


 突然会話に巻き込まれた夢来ちゃんは驚き、私は返答に困った。

 やっぱり、最初の三日間は四六時中一緒にいただけに、今の関係性の変化は傍目にもわかってしまうらしい。


「さっきのグループ分けも、様子が変に思えたけれど」

「…………」


 さっきのグループ分けというのは、ワンダーを監視するグループを決めたときのことだ。基本は、以前の三人のグループ分けを続行することとなったのだけれど……香狐さんと狼花さん、接理ちゃんと忍ちゃんのグループはそれぞれ、メンバーを失っている。

 佳奈ちゃんと凛奈ちゃんは案の定監視の不参加を表明したため、私と夢来ちゃんが別々のグループに分かれ、三人グループ三つに再編成されることとなった。

 ……そのときも、夢来ちゃんとは多少ぎこちなくなってしまった。たぶん香狐さんは、それのことを言っている。


 でも……これは、香狐さんに話すべき問題じゃないように思える。

 夢来ちゃんが一人でも強くなれるように、距離を取っているなんて――こんな本末転倒なことを語る理由はどこにもない。

 ……そうだ。本当に本末転倒だ。

 夢来ちゃんが強くなろうと決起したのは、おそらくは私のため。それがわからないほど私は鈍くない。それなのに、二人して距離を取ろうとしているなんて――。

 今思うと、本当にどうしてこうなってしまったのか。

 何より、その状態を受け入れていた自分が一番不思議だった。


 事件のショックで、色々なことを考えないようにしていたからだろうか。まるで催眠魔法でもかけられていたかのように、『二人で一緒にいる』という選択肢が全く頭に浮かんでいなかった。

 こうしてお風呂でじっくり考えたことで、ようやく魔法が解けた。


「えっと、あの……夢来ちゃん」

「な、なに?」

「いや……その、後で話があるんだけど」


 言おう。これまでと変わらず、ちゃんと一緒にいてほしい、って。

 ――何か悲劇が起こって、後悔する前に。

 そんな決意を持った誘いに、


「……ごめん。わたしは、その……。もう、彼方ちゃんに頼っちゃいけないと思うから」


 夢来ちゃんは首を振った。

 その仕草に、私は足場が揺らいだような感覚に陥る。

 緩やかに流れる空気が、瞬時に凍結したように思えた。


「わたしは、最初の日に、決めたのに。彼方ちゃんを支えるって。なのにわたしは、結局、彼方ちゃんの重荷になっちゃったから。……もう、同じようにしちゃいけないの」

「夢来ちゃん……」


 夢来ちゃんの頬を水が伝う。

 それは涙ではなかった。ただ、髪から滴っただけの水滴だった。

 それでも、私の目には、夢来ちゃんの悲愴が込められた涙のように映った。


 そして――夢来ちゃんが、香狐さんに目を向ける。

 そこに人見知りの色はなく、ただ、決意に満ちた瞳があった。


「あの……色川さん」

「あら? あなたから話しかけられるなんて初めてだけれど。なにかしら?」

「最近……色川さんは、彼方ちゃんと一緒にいてくれてますよね」

「ええ。そうね」

「……彼方ちゃんのこと、お願いできますか?」

「――あら」


 香狐さんが驚いた顔をする。


「あなたは彼方さんの友達じゃなかったのかしら? 自分で言うのもアレだけれど、こんな状況下で、得体の知れない相手に友達を預けるのは危険じゃないかしら?」

「…………」


 香狐さんの問いに、夢来ちゃんはチラリと私の顔を見た。

 ……その顔に、僅かばかりの寂しさを覗かせて。


「……彼方ちゃんが信じた人なら、大丈夫だと思うので」

「そう。まあ、私にしたら好都合だし、別にいいわよ」

「……好都合?」

「ええ。彼方さんと一緒にいられるのは、純粋に嬉しいもの」


 夢来ちゃんが、香狐さんの言葉に疑問符を浮かべる。

 それも一瞬のことで、夢来ちゃんは香狐さんの了承の返事に頭を下げた。


 ……自分のことが、自分を抜きにして決まっていく。

 そのことに、自分でも信じがたい感情を抱いていた。

 透明なお湯に浸かっているのに、まるで真っ黒なインクが染み込むような感覚。

 、冷たい感触。


 その感覚に、自分自身が愕然とする。

 友達に置いて行かれた寂しさが、人の死に触れたショックと同価値なんて。

 それじゃあ、まるで――。

 まるで――。


 私は、自分の人として失格な部分に触れたような気分になった。

 最低で、最悪で――すぐに、惨めな気分になった。

 他人のために生きる魔法少女が、個人的な事情を人の命と同等に扱うなんて。

 そんなこと、あっちゃいけないのに。


 この場所における命の価値は、軽い。

 そういう感覚に、既に私は浸食されてしまっていた。

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