第3話

 そして、特訓が始まった。


「――なんだ、お前そんなことも知らなかったのか? 三点リーダーやダッシュは二つで一セットだぞ」

「でもゲームや映画の字幕じゃ一つしか使ってなかったけどな」

「それはよくある間違いだ。鵜呑みにするんじゃない」


「――感嘆符や疑問符の後は一文字余白を空ける」

「すっきりして見やすいな」

「そういうことじゃないんだよ……」


「――次は、この本を模写するんだ。古今東西の名作を集めてきた。温故知新。本は先人達の知恵の結晶だ」

「えーっ。これ全部?」

「うるさい。つべこべ云わずにやれ。愛しい柊子を想い出せ」

「柊子ぉー!」男というものは実に単純なものである。




 特訓を開始して数ヶ月経ったある日。それは突然やってきた。


「あ、堂園くん。こんにちは」


 朗を心の底から揺さぶるであろう喉から奏でられるその音。何度も何度も、頭の中で自分の名を呼ぶ声を妄想し心奮わせてきた。今まさに、その人物が初めて自分の名を呼んでくれた。朗に背後から声を掛けてきた人物。それはまさしく、憧れの柊子だった。


「は、浜町さん。こんにちは。えっと、今日って雨が降るんだっけ?」


 慌てた朗は柊子の持ち物を見て、頓珍漢とんちんかんなことを云った。


「あ。これ? 日傘だよ。朗くんって面白いんだ」柊子は屈託の無い笑顔で答える。「それにしても久しぶりだね。姿を見掛けたから声を掛けたんだけど元気だった?」眩しいものでも見るように彼女は目を細めた。


「うん、元気だよ。浜町さんも元気そうだね」


「うん。それにしてもさ、朗くんなんか目がキラキラしてるね。高校の時とは大違い」柊子は朗の顔を覗き込む。


「そうかな。自分ではあまり変わってない気がするんだけど」


「きっとすごく熱中していることでもあるんじゃない? もしかして彼女でも出来たとか」


「そ、そんなことある訳無いじゃないか」


 ふたりの間に、しばしの沈黙が流れる。ここで冗談めかして『浜町さんが付き合ってくれたら』とか『誰か紹介してよ』などと、そのような軽口は口が裂けても云えない朗は、早々にこの沈黙から逃げ出すための言葉を発した。


「じゃ、じゃあ急いでいるので浜町さんまたね」


「あ。ごめんね、時間とらせて」


「いや、違うんだ。ごめん」


「何に熱中してるか分からないけど頑張ってね。それじゃあ」


 熱に浮かされた病人のように、去っていく柊子に向けてぼんやりと手を振る。

 遠くでその様子を見ていた正陽が近付いてきた。


「おっと、見てはいけないものを見てしまったかな? もうラブレターを書く必要は無いんじゃないか」と、茶化しにかかる。


「見てたのか。趣味の悪いやつだ」


 そう朗が毒づくと、ニヤつく茶化し男の隣にはスーツを着た女性が立っていた。後ろで束ねた黒髪。そして、フレームの細い眼鏡をかけ、どこか品のある女性だった。


「朗、今日はこの人を紹介しようと思って連れてきたんだ。なつめさんと云って山撫やまなで出版社の編集者の方だ。おれの担当さんでもある」


 そう紹介された棗は深々とお辞儀をした。


「初めましてなつめです。あなたが朗さんですか。話しは向江から聴いています。頑張ってくださいね」と、握手を求めてきた。


 朗は異性に緊張しながらも、手汗を洋服で拭って「堂園朗です」と、握手をする。手がしっとり柔らかいな、とそう思った。


「それでだ、今日棗さんを連れてきたのには理由がある。いよいよ特訓も大詰めだ。つまり、ラブレターを書くぞ。棗さんには、女性目線でラブレターの監修をしてもらう。いいな」


「お、応」朗はまごつきながら返事をする。


「よし、じゃあ今日が最後の特訓だ。いいか、全てを思い出すんだ。特訓が成功するか否かはお前に掛かっている」


 さぁ、いよいよここが正念場だ。今まで学習してきた事を全てラブレターにぶつけてやろう、と朗は拳を握りしめた。

 今日の墨滴もまずまずの混み具合だった。いらっしゃーい、とマスターが元気に迎え入れてくれる。

 だが、席につき最後の特訓を聴いて朗は拍子抜けした。それは、実に単純なクイズだったのだ。


「朗、これが最後の特訓だ。今から、文学に関するクイズを出す。これに答えられれば特訓は終了だ。いいか、よーく思い出してくれ」


 緊張した面持ちで正陽はそう云った。


「わかった。なんだかよくわからないが、それがきっと大事なことなんだろう。努力してみよう」


 棗も不安げな面持ちで朗を見つめる。


「では問題。今から九十年前、とある文豪が自ら命を絶った。その文豪の名は? そして、その文豪に師事した作家の名は? 時間はたっぷりある。朗、よく思い出すんだ」


 まるで、懇願するかのように正陽は云った。

 賑やかな店内とは対照的に、三人の間に沈黙が流れる。頭を抱え朗は考えた。

 答えはなんとなく分かっていた。だが、それだけではない何かがあるような気がした。頭の奥がちりちりと鳴る。体液が移動する音だろうか、と彼は考える。そして次の瞬間、刹那の稲妻が目の裏から後頭部へと突き抜けた。彼は大きく目を見開き、声を上げた。


「分かった。分かったぞ!」


「それでは答え合わせだ」


 固唾を飲んで見守っていた正陽と棗の目が大きく開かれる。


「答えは、文豪・目井松めいまつ紋之もんのすけ。そして、紋之助に師事したのは、護庵村ごあんそんおさむだ」


「その通り、正解だ。これで全ての特訓は完了だ。朗、よく頑張ったな。基礎ができている今の君ならそれなりの文章が書けるようになっているはずだ。今日はこれで解散しよう。明日、お互いに書いたラブレターの下書きを持って大学に集まろうではないか」


 そして朗たちは、ぬるくなって汗をかいたアイスコーヒーのグラスを一気にあおり、家路についた。

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