烈しく鮮やかな
物心つく前から両親に『お前は間の抜けたところがあるから、人に迷惑をかけないようにしなさい』と言い含められ、両親以外からは毎日“馬鹿”と罵られた。だから燈子自身もそれを疑ったことはなかった。
そんな燈子も中学生となり、着慣れないセーラー服など着るようになった。子供のころからの苛めは案の定というかエスカレートし、母は『あんたのろまだものね』と仕方なさそうに言うだけだった。
痛い思いをするのは嫌だったけれど、燈子には殴られるだけの理由がある。少なくとも燈子はそう思っていたし、周囲もそのように考えていた。
セーラー服の下の包帯が目に見えるほど増えたころ、燈子は3つ上の先輩に口説かれた。
燈子にとっては高校生の先輩など遠い存在で、話しかけられるのも怖い。先輩は上手く喋れない燈子を見て、強引に事に及ぼうとした。驚いた燈子は、精一杯の力を振り絞って先輩を突き飛ばした。
その瞬間の先輩の顔ときたら。まさか拒絶されるとは思っていなかった顔だった。
頭に血が上った様子の先輩は燈子を殴った。たくさん殴った。痛くて、痛くて、息ができなくて。殺されてしまうと思いながら、燈子は逃げだしたのだった。
その日から燈子は、怯えて家に閉じこもった。外に出たらあの先輩が待ち構えていて、今度こそ殺されてしまうと思ったのだ。燈子は仕方ないと思いながらもやはり殴られるのが嫌だったし、死ぬのはもっと嫌だった。
しかし3日経ったところで、父が燈子に声をかけてきた。『学校に行きなさい。卒業後にお前を雇うと言ってくれている工場だって、不登校の子供は受け入れてくれない』と。
燈子は戸惑ったけれど、いつも物静かで家庭内のことに口出ししない父がそうまで言ったのだからこれは大変なことなのだと思った。だから、学校には行かなければいけない。外に出なければいけない――――。
先輩が怖かった。怖くて怖くて吐きそうだった。しかし家族には迷惑をかけられなかったし、他に頼れる人なんていない。燈子は考えた末に、台所にあった包丁を持ち出した。それでどうするつもりなのか、自分でもよくわからなかった。
いつも先輩が仲間たちと屯っている公園へと赴き、そっと様子をうかがう。そこで燈子は、信じられないものを目にした。
先輩は、見知らぬ男に殴られていた。それも、尋常な殴られ方ではない。顔の形が変わるほどの勢いだ。男は、少なくとも燈子たちの倍ぐらいは歳上に見えた。しかし大人げなくも馬乗りになって先輩を殴っている。先輩はすでに意識がないようだった。
燈子はもう真っ青になって、包丁を持ったまま止めに入った。
「し、死んじゃう」
男が興奮気味に振り返って、燈子を突き飛ばす。「このガキがッ!」と先輩を指さした。
「このガキが! 俺のバイクを蹴りやがったんだよ!」
尻もちをついた燈子は、そのまま口をぽかんと開けて男を見上げてしまう。その時の感情をどのように表現していいか。強いて言えば、“驚愕”か。燈子は何とか喉を震わせて、「そんなことで……?」と呟いていた。自分の中で、何か大きなものが崩れていくのを感じた。
そんなことで。そんなことで、あんなに人を殴るなんて。私なんかもっと酷いことされてるけど我慢してる。なのに、この人は。
眉をひそめた男が、ゆっくりと近づいてくる。それから燈子の顔を、右手で掴んだ。
「なんだよ……言いたいことがあんなら言えよ」
何も言わなかった。何も言えなかった。恐怖からじゃない、ただ悔しかった。
そんな燈子を見て、男は馬鹿にしたように笑う。
「つまんねーガキ」
顔が熱くなった。
どんなに馬鹿と罵られても、のろまと笑われても、怒りなどわかなかった燈子が。恐らく生まれて初めて、怒りという感情を覚えたのだ。叫び出したかった。怒鳴ってやりたかった。
男はもう興味を失くしたようで、燈子に背中を向けて歩いて行く。その後ろ姿を見ながら、燈子はワッと泣き出した。喉が震えて、勝手に声が出る。そのまま立ち上がって、男に包丁を突き刺そうと駆け出した。
転んだ。のろまで間の抜けた燈子は、いきなり走り出したりなんかすると毎度のごとく転ぶ。包丁はすぐそばの地面に突き刺さった。
そんな燈子の横に、男が立っていた。しゃがみ込んで包丁の柄をつつきながら、「これ危ねえぞ、お嬢ちゃん」と笑っている。燈子は急いで飛び起きて、包丁を地面から引き抜いた。それから、めちゃくちゃに振り回す。男は「あぶねっ」と言って避けた。
「私は馬鹿にされたって殴られたって、怒ることなんか許されなかったのにっ! あんたは! あんたは、たかがバイク蹴られたぐらいで、先輩をめちゃくちゃに殴ったんだ! それぐらいで怒って、許されてるんだ! そんなのっ」
そんなのずるい。不公平だ。
男はきょとんとして、それから思いきり吹き出した。耐えきれなくなったように、腹を抱えて笑いだす。
それからひとこと、言った。
「知らねえよ」
その言葉で、燈子はようやく冷静になる。自分のしでかしたことに、一瞬で血の気が失せた。
「だが」と男は続ける。
「その見当違いの怒りも、俺は許そう」
男はそっと燈子の頬を掴んで、軽くつねった。「またいつか会おうぜ、お嬢ちゃん」と目を細める。
「その時お前がどうなっていようと、何をやらかしていようと、俺は許そう。俺だけは笑ってやろう」
そう言って、男は立ち上がる。くるりと踵を返して歩いていってしまった。
行ってしまう。燈子は腰が抜けてしまって、立ち上がることができない。
だから、もう一度声を張り上げた。
「待ってるっ!」
男は一度だけ振り向いて笑う。それは呆れだったのか、馬鹿にした笑いだったのか、燈子にはわからない。
もうずっと前から理不尽を知っていた。燈子に殴られるだけの理由などない。ずっと我慢していた。
包丁を地面に深く突き刺す。ザクッといい音がした。
どこでだって生きていけるような気がした。どんな風にも生きていけるような気がした。だって怒っても笑っても、あの人が許してくれる。
なんだかせいせいと泣きながら、燈子は倒れている先輩を一度だけ蹴って、家に帰った。
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