夏の匂いがする妹はお嫌いですか?
焼きそばを食いながらリビングに行くと、妹が縁側で空を見ていた。夕立の行く末を見守っているのか。遠くで雷も鳴っている。
「なつみ」
そう呼べば、数秒経って億劫そうな表情の妹は振り返った。それから怪訝そうに眉をひそめる。
「あんた、誰?」
木下夏海。それが妹の名前だった。歳はこの時15歳。そして俺は木下空。夏海の3つ上の18歳――――であるはずだ、この頃の俺は。
しかし今この場で焼きそばを食っている俺は28歳、脂の乗りすぎた年頃の社会人だった。
「誰ってお前、お兄ちゃんだよ」
「警察呼びますよ」
風鈴が鳴る。風というよりは、雨脚の強さに押された様子だ。
「なつみ……お兄ちゃんだよ」
「ちょっと焼きそば食べるのやめてくれます? もごもご言ってて聞こえない」
夏海の隣に座って、焼きそばを食べ終える。呆れた様子で、夏海はそれを見ていた。
「なつみ、」
「初めてですよ、こんな堂々とした不審者」
「俺だよ、空だ。お前のお兄ちゃんだよ。未来から来たんだ」
「……お兄ちゃんとグルになって悪戯してるんですか?」
俺は思わず「ふふっ」と言って笑う。「うわキモ」と夏海が顔をしかめた。
「俺さ、たぶん今お前と喧嘩してるよな」
「は?」
「喧嘩っていうかさ、ちょうど俺がこの家から出てくって言いだしたころだろ。で、お前は超絶拗ねてた」
「……お兄ちゃんの友達?」
「お兄ちゃんだよ」
妹は、もう数年前から着古しているようなTシャツで汗を拭っている。白い肌が見えて、俺は目をそらした。
「本当にお兄ちゃんならさ、」と夏海は口を開く。「あれやってよ、あれ。イン〇ン・オブ・ジョイトイのポーズ」と、指を立てた。
俺は28歳にして、M字開脚を妹の前で見せる羽目になった。
「キモすぎる」と言いながら妹は噴き出す。雨の音とよく似た小気味いい声だった。本当にこいつは可愛いな、とM字開脚をしたまま俺は思う。
妹はすっかり警戒心を解いたようで(正直、これで警戒心を解く妹のことを俺もどうかと思ったのだが)俺に笑いかけてきた。
「もうやめてよ、お兄ちゃん。誰かに見られたら恥ずかしいよ」
「俺が今恥ずかしいよ」
くつくつ喉を鳴らし、「まあ最初っからわかってたけどね。お兄ちゃん、あんまり変わってないもん」と片目をつむる。何ということか、俺はほとんど無意味にインリ〇・オブ・ジョイトイさせられたようだ。
「お兄ちゃんさ、なんで未来から来ちゃったの?」
「別に。俺の時代、割と熱海旅行ぐらい気軽な感じで過去とか行くし」
「マジ? いいの、そんなんで」
「その代わり、過去に何やっても残んないの。だから俺が今から全裸で高速を自動車と並走しても経歴には何のキズもつかないってわけ」
「経歴にキズっていうか、人間やめてない?」
不意に立ち上がった夏海が、台所の方へ消えていく。しばらくして戻ってきた彼女の手には、懐かしい色合いのアイスキャンディが握られていた。「1本あげる」と差し出されたのはラムネ味のものだった。
「未来、どうなってる?」
「うーん……たかが10年だからな。お前が好きだった漫画、完結したよ。実写映画化もしたし」
「実写かぁ」
「割と面白かったけど」
「割と、の範囲じゃ見る気起きないなぁ」
そういうんじゃなくてさ、と夏海が目を細める。「わたし、彼氏できた?」と。
バケツをひっくり返したような雨は、激しさを増していた。雷も近くなっている。この日この時、俺は一体何をしていたんだっけ。アルバイトだったかな、この頃の俺は家を出ていこうと必死だった。
「彼氏どころか、」なんて、とっさに喉を震わす。「お前には旦那がいるよ」と、俺は妹に嘘をついた。
夏海の表情が変わる。訝しげな顔。俺の目を覗き込んで、「……ふーん」と不服そうな声を出した。「結婚したんだ、わたし」そう、試すような声を出す。
「お兄ちゃん以外の人と」
雷が落ちた。外はほどほどに暗い。
ああ、もしかしたら妹は、俺の嘘がわかっているのかもしれない。言外に『そうはならないでしょう』という響きを受け取った。『わたしがそんな選択をしたりしないでしょう』という、強い確信だ。
「何だよ、その顔。お前だって彼氏欲しがってたろ」
「別に? そーなんだ、って思っただけ。わたしの旦那さん、どんな人?」
「いいやつだったよ、誠実で」
「……ふーん」
俺は目を伏せて、「色々あるんだよ、大人には」と呟く。
決して大人になることはない妹に、俺は。そんなことを、言ったんだ。
あれ、と夏海が空を見る。雨は弱まっており、向こうには青空すら見えた。夏の夕立は足が速い。チリンと風鈴が鳴った。今度こそ、涼しげな風が吹く。
「買い物に行かなきゃ」と夏海は言った。俺は何も言わない。
この日、夏海は雨上がりに買い物に行く。未来から来た俺はそれを知っているし、その先でこの愛らしい妹が、信号無視の自動車に轢かれて飛ばされることも知っている。だけど何も言わない。それが何より無駄なことと知っているからだ。
「あのさ、お兄ちゃん」
「うん?」
「お兄ちゃんが家出てくって言ったの、わたしのせいなのかな」
「……なんで?」
「お父さんに見られちゃったから」
もはや隠すつもりもないが、俺は夏海を愛していた。夏海も俺を好いていてくれていた。
本当は、都会に住む場所を見つけたら夏海を連れ出すつもりだったのだ。そのために金が必要で、毎日あくせく働いた。夏海のせいではない。2人のためだった。
「俺たち、ちゃんと兄妹として、もう一度仲良くなれるよ」と、俺はまた嘘をついた。兄妹としても何も、夏海はこの日俺の知らないうちに死ぬ。
それでさ、と俺は目を伏せながら微笑んだ。
「お前がせがむもんだから、俺はお前の結婚式でM字開脚させられるんだ。クソみたいにスベるから、楽しみにしとけよ」
俺の可愛い妹は、腹を抱えて笑った。
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