Episode 10 Légion étrangère
次の日の午前、例の浮気調査の依頼主からの入金を確認した俺は、調査報告書を速達の配達証明で郵送した。
年末年始であれば依頼人が、単身赴任先からあららぎ市の自宅に戻ってくること、その時に説明を交えて直接手渡しをすることなども考えられたが、依頼人からは「説明はいいから、出来るだけ早く調査報告書に目を通したい」とのことだったので、先方の希望通りの方法で調査報告書を送付した。
依頼人は妻が浮気をしていることを既に知っているし、その妻が待つ自宅に帰る気はないのかも知れない。依頼人とその妻にとっては修羅場の年末年始になるのかも知れないが、その辺りのことについては俺の知ったことではない。
ひとまず依頼が一件落着し、幸か不幸か現在のところは他に依頼も抱えていなかったため、今年は例年に比べると比較的穏やかな年末年始を迎えられそうだった。特に昨年は、この時期に様々な出来事があり、非常に慌ただしい年末年始であったため、正直なところ非常にありがたい。
そんなことをぼんやりと考えながら、郵便局から自宅へと帰ってきた時、出かける際に玄関のドアの前に立てておいたはずのチェスの駒が、倒れてドアの脇へと転がっていることに気が付いた。俺の胸の内に、瞬時に緊張が走った。
静かにチェスの駒を拾いながら、いつも懐に忍ばせてある折りたたみ式のナイフを取り出し、右手に構えてそっと玄関のドアを開けた。鍵をかけておいたはずの玄関のドアは、すんなりと開いた。
音を立てないように玄関へと忍び込み、様子を伺う。洗面所兼脱衣所の方から、微かに人の気配がした。相手が誰かは分からない。手にしているナイフは災害など緊急時の脱出・救出用のもので、格闘に用いるにはいささか心もとないものだったが、自分の部屋まで戻っている余裕はなさそうだった。
土足のまま家の中に入り、洗面所兼脱衣所の扉の側まで忍び寄った俺は、ナイフを構えながら扉を勢いよく開けた。
「……
そこには驚いた表情の、バスタオルで身体の前を隠した全裸のマーシャが立っていた。彼女の抜けるように白い肌が、みるみるうちに
「悪い……お前がいること、すっかり忘れてた」
溜めていた息を大きく吐き出した俺は、それだけ言ってすぐさま部屋を出て扉を閉めた。扉の向こうから、マーシャがロシア語で何やら叫びながら、タオルか何かをドアに投げつける音が聞こえてきた。
手にした折りたたみ式のナイフをたたみ、懐にしまって玄関に戻った俺は、靴を脱ぐとマスクを外し、両手でごしごしと自分の顔を擦った。チェスの駒が動いていたのも、きっと何かの拍子にマーシャが玄関のドアを開けたのだろう。
今更女の裸を見たぐらいでどうこうなるような
リビング兼事務所の部屋に戻ってしばらくすると、涙目のままで非常に不機嫌そうな顔をしたマーシャがやってきた。
「ちょっとコースケ、いきなり何するですか」
マーシャは手にしていた濡れたバスタオルを、俺の顔面目がけて投げつけてきた。そのバスタオルを、顔に当たるすんでのところで受け止めながら、俺はマーシャに謝った。
「いや、本当に悪かったよ……っていっても、別に悪気はなかったんだ。単なる俺の勘違いだ」
「ハダカ見られたのも嫌だったけれど、ナイフ持ってるコースケ、すごく怖かった」
「いやだから、本当に俺の勘違いだったんだって」
「その勘違いって、一体何?」
マーシャが
「それ以上のことは聞くな。お前をここに置いておけなくなる」
マーシャはしばらくの間、じっと唇を噛みしめていたが、やがて大粒の涙を目に浮かべながら、大きな声で泣き出した。俺は思わず頭を掻き、言葉を選びながら言った。
「分かったよ、俺の言い方が悪かった……俺も誰かがこの家に一緒にいるのは久しぶりだったからな。お前のことをすっかり忘れていて、てっきり家に泥棒でも入ったのかと思っただけだ。勘違いってのは、そういうことだよ」
「……本当?」
「こんなことで嘘を言っても仕方がないだろう」
「じゃあ私、ここにいてもいイ?」
「とりあえず、もうしばらくの間はな。まさか今更、お前を年末の路頭に放り出す訳にはいかないだろうが」
俺がそう言うと、マーシャはぐずぐずと鼻水をすすりながらソファに腰かけ、目を合わせずに俺に言った。
「私、喉乾いてます」
「……何が飲みたいんだ?」
「昨日買ってくれた、オレンジジュース」
「へーへー、分かりましたよ」
キッチンへと向かい、冷蔵庫の扉を開けてオレンジジュースのパックを取り出し、中身をグラスに注いだ。リビングに戻るとマーシャはそっぽを向いたままだったが、彼女が座るソファの前のテーブルにグラスを置くと、彼女は黙ってそれを手に取って口元に運んだ。
「ちなみにお前、何でこんな時間に風呂に入っていたんだ?」
俺がそう尋ねると、マーシャはオレンジジュースのグラスを手にしたまま、不機嫌そうな声で答えた。
「私が使わせてもらっている部屋、少し
「まあ、普段は使っていなかった部屋だからなぁ。言われてみれば、掃除もたまにしかしていなかったかも」
我が家は自宅兼探偵事務所である賃貸マンションの一室だったが、一人で暮らすようになってからは、日頃使う部屋はほぼ限られていた。
「コースケ、この家のソージしましょう」
マーシャが唐突に言った。
「日本ではこの時期、オーソージするって聞きまシた。家のソージ、とても大事」
マーシャにそう言われて、俺もはたと気が付いた。昨年の年末はばたばたしていて大掃除どころではなく、そのまま年を越していた。家の掃除は、暇な時に気が向いた場所だけしていたので、場所によってはここ二年分ほどの汚れが溜まっているかも知れない。
そこから先のマーシャの行動は、とても早かった。俺がいくつかの掃除用具を手渡すと、マーシャはてきぱきと手際よく自分の部屋の掃除をしていく。
部屋の窓を開け、掃除機をかけ、部屋に置いてあるものの上に薄く積もった埃を、乾いた雑巾で拭き上げていった。部屋の壁のクロスについても、手の届く範囲で一生懸命に雑巾がけをしていたが、クロスに染みついていた煙草の煙の汚れでうっすらと黄ばむ雑巾に、マーシャは時々顔をしかめていた。
掃除の途中、クローゼットの中を開けたマーシャが、何やら嬉しそうな声を上げた。
「こんなところに、エアクリーナーあったですね……コースケ、これ使ってもいイですか?」
それは俺が、この部屋の
俺が頷くと、マーシャは掃除機を使ってフィルターを掃除してから、壁際のコンセントに空気清浄機の電源コードを差し込み、スイッチを入れた。およそ一年ぶりに復活した空気清浄機は、特にどこか調子が悪いといったこともなく、静かに己の役割を果たし始めた。
それから壁際の本棚を掃除していた時、マーシャが伏せてあった写真立てに気が付いた。その写真立てを手にしたマーシャが、俺に尋ねた。
「この右側に写ってる男の人、シンゴですか?」
彼女が手にしていた写真立ての中身には、
俺が無言のまま頷くと、マーシャは少し感心したような声を上げた。
「シンゴ、コースケよりも背が高い。それに、痩せててカッコイイ」
確かにアイツは、女によくモテた。女に対して常にスマートに立ち振る舞い、愛想も良かった。だが、一見チャラチャラした優男風な見かけに相反して、アイツには惚れた女に一筋なところがあった。
だからこそ、玲芳もアイツのことを
「お前の好みのタイプか?」
俺が茶化して言うと、マーシャは少しの間首を捻って目を細め、それからぼそりと答えた。
「悪くはないですが、ちょっと違う。リンファンサン言ってたこと、少し分かります」
俺は心の中で少しだけ、アイツに同情した。
「煙草を吸う男は嫌ってやつか?」
「はい。私もどっちかっていうと、タバコの匂いと煙ダメ」
「この部屋用の消臭スプレーが必要か?」
この部屋から煙草の匂いが消えるのは、まるでアイツがここにいた痕跡が消えてしまうような気がした。そんな俺の思いを察したのか、マーシャはふるふると被りを振った。
「コースケの気持ちうれしいけれど、私、この家ではイソーロー。わがままいイません、ソージだけでいイです」
「そうか」
マーシャが使っている部屋の掃除が終わった後も、リビングやキッチン、洗面所や風呂場など、マーシャは実によく働いた。
正直なところ、まるでモデルか女優のような彼女の見た目からは、家事全般においてとても得意そうには見えなかったのだが、そのことを口にすると彼女は口を尖らせた。
「ロシアでは家事、だいたいは女の人の仕事。でもコースケ、手伝ってくれると嬉しい」
「……悪い、ただ見ていただけだったな」
そこからは二人で、家のあちこちの部屋の掃除を片付けていった。ほとんどの部屋の掃除が終わったところで、マーシャがにっこりと笑った。
「さあ、これであとはコースケの部屋だけです」
「いや、俺の部屋はもういいよ。適当にだけれども、日頃から掃除はしているつもりだ」
「ダメです、ちゃんとオーソージしないと」
マーシャは口ではそう言っているが、何やら目が
「お前、本当に大掃除が目的か?」
「……はい、もちろん」
「どうして一瞬の間があった……まあ、いい。それじゃあ、俺の許可なく勝手に部屋のものをいじらないこと。約束出来るか?」
俺がため息交じりにそう言うと、マーシャは何度も首を縦に振って笑った。まだ多少の不安はあったが、俺は自室にマーシャを招き入れた。
「思っていたよりも、全然モノがないですね」
マーシャの視界に映ったのは、簡素な造りのベッドが一つに、ベッドサイドチェスト。その上には電気スタンドがあって、窓際には小さなライティングデスクとチェア。壁際に本棚が二つ。クローゼットの中身を除けば、それがすべてだった。
「だから言っただろう、掃除は必要ないって」
「シンゴの部屋は、もっと本とかいっぱいありまシた」
「アイツはヘビースモーカーで読書家で、コーヒーの味にうるさい奴だったよ」
マーシャがそわそわしながら、俺の部屋の中をあちこち眺めていた。そのうち、彼女は本棚の一番上に飾ってあったものに興味を示した。
「コースケ、このバッジがいっぱい入っている
「フォト……何だって?」
「えっと、Picture frameです」
ロシア語から英語で言い直した辺り、流石のマーシャも「額縁」と言う日本語は、まだ覚えていなかったらしい。
「ああ……そいつの中身は、俺が昔フランスにいた時に貰ったものだ」
「手にとってみても?」
「ん? まあ、それぐらいなら」
俺が頷くと、マーシャは本棚に飾っていた額縁の一つを手に取った。
「何かの記念バッジ、ですか……この丸いのは? えっと、右手に剣持ってて、手に翼があります」
「それはベレー帽につけていたものだ」
「じゃあ、この星と葉っぱのついたパラシュートのは? 両脇に翼生えてます」
「落下傘兵
俺の言葉に、一瞬マーシャが声を詰まらせた。
「じゃ、じゃあ、こっちの逆三角形のは? ドラゴンの前に何か模様があります、左上には2って」
「第二外人落下傘連隊章。ドラゴンの前の模様は部隊章だ」
「……もう一つ、逆三角形のがあります。これだけ、黒い色してます」
「第三中隊の徽章。あと、そのデザインは七つの炎の手りゅう弾と、
マーシャはそっと額縁を本棚に戻すと、俺の方へと振り返って尋ねた。
「コースケ、一体何者ですか?」
「
俺がそう言うと、マーシャはしばらくの間呆気に取られていたが、やがて小さなため息をついて被りを振った。
「だからコースケ、フランス語上手?」
「多少の予習は日本でしていったが、あとは現地で必死になって覚えたよ」
「身体の筋肉すごいのも?」
「仕事柄、一応今もトレーニングは続けている」
「戦争行った事、ある?」
「ああ」
「人を撃ったことは?」
恐る恐る、マーシャが尋ねてきた。
「従軍中には、ない」
俺の答えに、マーシャはほっと息を吐き出して笑った。俺は言葉を続けた。
「その額縁はいつだったか忘れたが、何かの時にアイツが用意してくれたものだ。せっかくの記念品なんだから、綺麗に飾って見せびらかせるようにしておけって」
もちろん額縁選びという名目は、アイツが玲芳とデートに行くための口実に使われていた。そのことをふと思い出し、思わず苦笑する。
「何でまた、外人部隊なんかにいたですか?」
軽く首をかしげたマーシャ。俺は少しの間、返答に困った。慎重に言葉を選びつつ、過去の自分を振り返って答える。
「あの頃は俺も、若くて無知で無茶だった。自分が一体どこまで出来るのかを、限界まで試してみたかった。人生をもっと賢く立ち回っていれば、今頃はもっと楽な生活をしていたんじゃないかって思うことは、時々あるけれどもな」
「じゃあコースケ、スカイダイビング得意?」
一転してあまりにも無邪気なマーシャの問いに、つい苦笑した。
「フランスに行く前は、これでも陸上自衛隊の空挺レンジャーだったよ。さっきの額縁の隣にもう一つ、翼の生えたパラシュートのバッジやら、
俺がそう言うと、マーシャが呆れたように被りを振った。
「コースケ、そんなに空飛ぶの好き? 日本では、高いところ好きな人のこと」
「何とかと煙は、高い所が好きって奴だろう? 昔から散々言われてきたよ」
「そう……でも、これでコースケのこと、また少し分かった気がします」
そう言ったマーシャが、少しはにかんだような笑みを浮かべた。
「どういう意味だ?」
「何でコースケが日本人っぽくないのか、ちょっと分かってきた……コースケ、いつも不思議なフンイキ持ってるから」
「お、ちゃんと雰囲気って言えるのか」
俺がそう言うと、マーシャは不機嫌そうに少し口を尖らせた。
「私、日本文学勉強してます。馬鹿にしないで」
「いや、素直に感心したんだよ。日本人でも雰囲気が言えない奴、結構いるから」
その言葉を聞いたマーシャは、少し得意げに胸を反らして見せた。俺にもだんだんと、マーシャのあしらい方――もとい、扱い方が分かってきたような気がした。
「それじゃあ、もう気が済んだだろう? 部屋の掃除も必要ないことが分かっただろうし」
そう言ってマーシャを部屋から追い出そうとしたが、マーシャは何やら意味ありげな笑みを浮かべながら、立てた右手の人差し指を左右に振った。
「
マーシャはそう言って、おもむろに俺のベッドの下を覗き込んだ。這いつくばった時にマーシャの形の良い尻が、ぐいと天井に向けて突き出されていた。ミニスカートなどではなくパンツ姿だったことが、俺にとっては幸いだった。
「ほらやっぱり、埃いっぱい……って、あれ?」
「そこは後で適当に掃除機を突っ込んでおくから、もういいだろう?」
「何か箱があります、これ何ですか?」
俺が制止するよりも早く、マーシャがベッドの下にあったものを引っ張り出してきた。
「何、これ? えっと……グロック17?」
「モデルガンだよ。俺の趣味だ」
俺はマーシャが手にしていた小さな箱を取り上げて言った。
「俺の許可なく部屋のものに触れるなと言ったはずだぞ、マーシャ」
「うう……ごめんなさい。でも、もっと違うモノあると思った」
「一体何があると思ったんだ?」
「日本のコミックの中に出てきた話。男の人のベッドの下、ロマンがあるって」
「あのなぁ……お前、それボーイフレンド相手には絶対にやるなよ?」
思わず頭が痛くなった俺は、手にしていた箱を再びベッドの下へと戻した。その様子を横目で見ながら、マーシャが不思議そうに尋ねてきた。
「でもコースケがオモチャのガンで遊ぶの、想像できないです」
「することが無い時にその辺に的を並べて、順番に撃つんだよ。本物とは到底程遠いが、ちょっとした練習ぐらいにはなる」
俺の言葉に、マーシャが首を捻った。
「何でコースケ、ガンの練習するですか?」
「そりゃまあ、軍にいた時に一通り撃ち方を教わったからな。折角なら狙いを定める感覚ぐらいは、出来るだけ忘れないようにしておきたい。あとは単なる俺の趣味だ」
「ふうん」
それだけ言うと、マーシャは部屋の入口付近に置きっぱなしにしてあった掃除機を手に取って言った。
「ついでですからベッドの下、ぱぱっとソージしちゃいましょう」
「……分かったよ、任せる」
俺はふと、昔アイツがいつかの酒の席で言っていた言葉を思い出した――
もちろん、すべてのロシア人女性がそうだとは限らないものなのだろうが、いざ目の前で実例を見てしまうと、アイツの言っていたことにもそれなりの根拠があったのだろうかと思ってしまった。
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