Episode 11 異文化コミュニケーション

 その日の晩飯は、夕方に近所のショッピングモールで食材を買ってきたマーシャが腕を振るってくれた。


「久しぶりに作ったから、ちょっと自信ないかも」


 そう言って笑いながらマーシャが出してくれたのは、ロシア料理の定番ボルシチだった。そして、こちらも定番と言えば定番の黒パン。トーストはされておらず、適度な薄さにスライスされている。


「あそこのお店、材料いっぱい売ってるの好きです。前に住んでいた部屋の近くのお店、あそこのお店に比べると品数少ない」


「実のところ、俺も本場のロシア料理ってのは初めて食べるんだが……なかなか美味そうだな」


 ボルシチはテーブルビートを使った真っ赤なシチューの上に、白いクリームソースが乗っていて、見た目はちょっと慣れないが良い香りが漂っている。


 スプーンを手に取り、ボルシチを一口食べてみた。


「うん、美味いよ」


「良かった。まだたくさんあるから、どんどん食べて」


 マーシャはそう言ってにっこり笑うと、自らも席に着き料理を口にし始めた。


 しばらくの間、俺達は互いに無言で食事を口にしていたのだが、不意にマーシャが嬉しそうに笑った。


「やっぱり、誰かと一緒にお家でご飯食べるの、いイですね」


「何だよ、藪から棒に」


「私、学校にいる時は、時々アキコとご飯食べてまシた。でも、アキコいない時は一人が多かった。家にいる時は、いつも一人だった」


「……」


「ここ何回か、コースケ、私をご飯食べに連れていってくれまシた。それも嬉しかったけれど、やっぱりこうやってお家で誰かとご飯食べるのが一番好き」


 俺は皿の上に並べてあった黒パンを一枚取ると、一口大にちぎって口に入れた。黒パン独特の酸味が、何とも新鮮な味だった。


「俺も家で誰かと飯を食うのは、久しぶりだな」


「今までコースケ、どんなご飯食べてまシたか?」


 マーシャのその問いに答えるには、少しの時間と勇気が必要だった。


「アイツがいた時には、交代で飯を作っていたんだが……あの野郎、人の料理にケチをつけることがやたら多くてな。やれ味付けが雑だ、やれ手抜き料理だとか言いやがって。自分の作った料理だって、似たり寄ったりだったくせに」


 俺は昔のことを思い出し、苦笑した。


「でも、ここ最近はだいたい外で食事を済ますか、適当に弁当なんかを買ってきて食ってることが多かったな。自分一人だけの料理を作るのって、案外手間だろう?」


「私、お金なかったから、作るの大変とか言ってられませんでした。安い材料買ってきて、クフウして食べてまシた」


「なるほど」


 それから俺達は、それぞれ一杯ずつボルシチのおかわりを食べたが、鍋の中にはまだいくらか残りがあった。マーシャは明日の朝食に食べるからと言って、鍋に蓋をしてそのまま冷蔵庫に入れた。


 キッチンの方からは、マーシャが食器を洗う音が聞こえてくる。家で誰かと飯を食って、特に何をするわけでもなくこんな風にぼんやりとしていられるのは、本当に久しぶりのことだった。


 食器の後片付けを終えたマーシャが、今度は何かを盛り付けた皿を持ってやってきた。マーシャが俺の目の前に置いたその皿には、三種類ほどのチーズのスライスが載せられていた。


「おいマーシャ、これは一体何だ?」


「んっふっふ、これロシアの夕ご飯の定番です」


 そう言ってマーシャは再びキッチンに戻り、今度は小さめのグラスを二つと一本の酒瓶を持ってきた。


「ロシアではみんな、夕ご飯食べたあとにこれ飲みます」


「……ウォッカじゃないか」


 赤と白のラベルが貼られた透明の酒瓶の中には、同じく透明の液体が入っている。マーシャはいつの間に、こんなものを買っていたのだろうか。


「マーシャ、お前、たしか十九歳だったよな?」


「はい」


「じゃあ、何でグラスが二つある? 日本じゃ酒は二十歳になってからでないと飲めないぞ?」


 俺がそう言うと、マーシャは何やらうちひしがれたような表情で、がっくりと肩を落とした。どうやら一緒に飲む気満々だったようだ。


「嘘……だいぶ前に大学の男の子たち、お酒飲みに連れていってくれまシたよ?」


「おいおい……で、お前、その時に酒を飲んだのか?」


「はい、とてもおいしかったです」


「馬鹿。それはお前、たぶんだまされていたんだろう」


 俺の言葉に、マーシャが不思議そうに首を傾げた。


「だますって、どういうこと?」


「そりゃお前、男が女を酔わせてすることって言えば……」


 俺が言葉の語尾を濁すと、しばらくしてマーシャはその意味を悟ったようだったが、すぐにからからと明るく笑った。


「コースケ、それなら全然心配ないです。確かに男の子たち、何回も私にお酒くれまシたが、みんな私より先にお酒でダウンでした」


「何だと?」


「日本の男の子、そんなお酒強くない。ロシアでは、十八歳からお酒買えます。私もウォッカ、家でたまに少しだけ飲んでまシた。男の子たちがくれたお酒、アルコールそんなにないのばかりでした」


 マーシャの話を聞いた限り、どうやらロシアでは十八歳から酒が飲めるということらしい。で、大学の男友達――いや、この場合「友達」と言って良いのかどうかはさておき――は、マーシャにカクテルやらビールやらをどんどん勧めていたようだったが、彼女の基準で言えばそれらは全て、アルコール度数の低い酒ばかりだということだった。


「ロシアでは男も女も、普通にウォッカ飲みます。昔に比べたら、飲む人少ないですが……でも、日本の男の人がロシアの女の人酔わせるの、たぶん無理」


「……そんなこと言ってあおっても、俺はお前に酒を飲ませるつもりはないぞ?」


 じろりとマーシャをにらむと、彼女は恨めしそうな顔でこちらを見た。


「今だけここロシアってこと、ダメですか?」


「そんなもの、駄目に決まっているだろう」


 俺がそう言うと、マーシャは少しの間ねたような顔をしていたが、やがて赤いボトルキャップの封を開けると、グラスに瓶の中身をなみなみと注いで俺に差し出した。


「面白くないから、今夜は私がコースケ酔わせます」


「おいこら、何でそうなる」


「ほらコースケ、早くグラスの中身を飲んでクダさい。ロシアではお酒飲み残すの、とてもエンギ悪いです」


 俺は差し出されたグラスに手を伸ばし、ニヤリと笑ってみせた。


「一応言っておくが、俺をそこいらの軟弱な学生共と一緒にするなよ?」


 俺がいた第二外人落下傘連隊の駐屯地はコルシカ島カルヴィで、フランス外人部隊の仲間内ではアルカトラズ――脱獄不可能と言われた連邦刑務所があった、アメリカの島になぞらえられていた。海に囲まれた島での駐屯地生活では、自由になる時間も少なく、飲酒は数少ない娯楽の一つだった。そのような環境下で、俺の肝臓は自然と鍛えられていた。


 マーシャは酒瓶を、冷凍庫にでも入れていたのだろうか――グラスの中身は、キンキンに冷やされていた。


「ゴタクはいイですから、そのグラスの中身、ぐっと一気に飲む。ちょっとずつ飲むのダメ、それがロシア流」


 マーシャに煽られた俺は、グラスの中身を一気に飲み干した。日本酒や他の洋酒の類とは異なり、風味などは全く感じられない。ただただきつい純粋なアルコールが、喉を焼くようにしながら、とろりと胃の中へ滑り落ちていく。まるで消毒薬のような匂いが、鼻の奥に充満した。


「コースケの飲みっぷり、なかなか悪くないですね。はい次」


 空になったグラスに、すかさずマーシャが次の酒を注いだ。


「おいおいちょっと待て、今飲んだばかりだぞ?」


「全くもう、しょうがないですね。じゃあ、少しチーズ食べる?」


 マーシャが差し出した皿から、スライスされたチーズをつまんで口に入れた。口の中が少ししびれるような感覚だったが、濃い目のチーズの味は何とか味わうことが出来た。


 それから都合六杯、マーシャは立て続けに俺のグラスへウォッカを注いだ。大見得を切った手前、言われるがままにロシア流でウォッカを飲み続けたが、七杯目のグラスを空にしたところで、次の酒を注ごうとしたマーシャを制止した。


「マーシャ、ロシア流はもう分かったから、これ以上酒を注いでくれるな」


 マーシャがニヤリと笑った。


「コースケ、ギブアップですか?」


「……流石にこの飲み方は、ロシア人以外にはきつすぎる」


 ウォッカはまるで水のような口当たりで、飲みやすいと言われれば飲みやすい。だが、かなりのアルコール度数を有する酒であることには変わりがない。


 短時間の間で急激に摂取した強いアルコールのせいで、徐々に頭がふらついてきて、少し汗ばんできた。そんな俺の様子を見て、マーシャが小さく舌を出して笑った。


「ごめんね、コースケ……私、ちょっとイジワルし過ぎたかも」


 マーシャはそう言ってキッチンへと姿を消し、冷蔵庫の中にあった五百ミリリットル入りのミネラルウォーターのペットボトルを持ってきて、空のグラスに中身を注いだ。


「はい、お水」


 マーシャに差し出されたグラスを受け取り、その中身を一気に飲み干した。相変わらず目は回っているが、少しだけ気分が楽になった。


「一応聞いておくが、本当にこれ、ロシア流なのか?」


「はい、ロシアのです。でも、今の若い人はそんなにウォッカ好きじゃない。お酒飲む人も、随分と減りまシた」


「……お前が家でウォッカを飲んでいたっていうのは?」


「嘘じゃないけれど、そんな本当でもない。たまに、少しだけ。今まで二回ぐらい?」


「日本で酒を飲んだって言うのは?」


 俺の問いに、マーシャが少し気まずそうに笑った。


「えっと……それは本当。カクテルとてもおいしかったです。甘くて飲みやすい、アルコールほどほど」


 マーシャがアルコールに強いというのは、どうやら本当のことらしい。最後にもう一つ、俺はマーシャに尋ねた。かなりアルコールが回ってきて、こめかみの辺りがどくどくと脈打っているのがはっきりと分かった。


「何で俺にこんな飲み方をさせた?」


 マーシャは少しの間黙っていたが、やがて言葉を選ぶように言った。


「えっとね……一つは、コースケにロシアのこと、もっと色々と知って欲しかったから。もう一つは、コースケのこと、もっと良く知りたかったから」


「何だ、それ?」


 酒臭い息を吐く俺に、マーシャが小さく笑った。


「ロシアでは、家族や友達と一緒にご飯食べたり、お酒飲んだりして楽しく過ごします。お酒はちょっとやりすぎちゃいまシたが、だいたいこんな感じ。私もコースケと一緒に、楽しく過ごしたかった」


「……」


「あとはコースケ、あんまり自分のこと話してくれないから……お酒飲ませて酔わせたら、もっとお話をしてくれるかなって」


 俺は椅子の背もたれに身体を預け、天井を仰ぎながら言った。


「言っただろう、俺達は知り合って今日が四日目。友達だ何だって言うには、随分と早すぎる」


「……友達になるの、そんなに時間が必要ですか?」


 マーシャがぽつりと、寂しそうに言った。


「コースケに色々助けてもらったの、私、とても嬉しかった。コースケいなかったら、私今もあの公園で一人、ずっとこごえていたかも。だって、他に行くところなかったから」


「……」


「コースケ、私にとても優しい。他の人達みんな、私のことガイジン言って、なかなか友達なってくれませんでした。はじめから普通に接してくれたの、コースケだけ」


「それは」


「でも、コースケどこかでずっと、私のこと避けてるみたい。私、それがとても悲しい」


 そこまで言って黙り込んだマーシャに、俺は天井を仰ぎ見たまま答えた。


「マーシャ……人間だんだんと歳を取ってくると、若い頃みたいにすぐ誰とでも友達になれるってものじゃなくなるんだ。世の中のいろんなしがらみが付いて回るからな」


 マーシャが、不思議そうに首を傾げた。


「シガラミ?」


「ああ、えっと……色々と抱えている問題みたいなもんだ。それに、俺が今している仕事は全部が全部、安全な仕事ばかりってわけじゃない。人の恨みを買うことだってある」


「そんなの」


「そんな中に、下手にお前を巻き込むわけにはいかない。俺とお前の接点は、必要最小限であったほうが良い」


「……」


「だからお前は、さっさと次の仕事と住む部屋を探して、早くここから出ていくんだ。それがお前のためだ」


 俺の言葉を聞いたマーシャは、少しの間黙ってうつむいていたが、やがて席を立って呟くように言った。


「えっと……先にお風呂、いただきます。私が言うのも変だけど、コースケ、もう少ししてからお風呂入った方がいイ」


「まあ、そうだな……これだけ酒が回っていると、すぐに風呂っていう気分じゃないな」


「うん、それじゃあ……コースケ、Ты Одинокийアイディノキー человекチェイォイェク


 マーシャが最後に呟いた言葉の意味は、俺には分からなかった。


 手を伸ばし、テーブルの上の皿からもう一枚、スライスチーズをつまんだ。そのチーズはどうやらスモークチーズだったようで、微かにほろ苦いスモークの香りが口の中に広がった。


「……やっぱり、しくじったかな」


 マーシャとの距離感を測るのは、正直とても難しい。見捨てるという訳にもいかなかったが、妙に懐かれても色々と困る。必要な手は差し伸べてやれば良いのだろうが、やはり下手に情が移る前に、この家から出ていってもらう必要があるだろう。


 こういう時、アイツだったら煙草の一本でも吸っているのだろうが、俺は身体に匂いが染みつくものは極力避けている。その代わりに、テーブルの上に残されていたミネラルウォーターのペットボトルへと手を伸ばし、キャップを開けて直接中身を飲み干した。部屋の中で壁掛け時計の秒針だけが、ゆっくりと静かに時を刻んでいた。

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