Episode 9 シンデレラ・レディ
玲芳とお袋さん、そして最後に少しだけ表に出てきてくれた親父さんから、それぞれ「また店に来て欲しい」と言われた。帰り際に会計を済ませようとしたところ、お袋さんがこっそり「久しぶりに来てくれたから、今日はお金はいらないよ」と言ってくれたのは有難かった。ただ、最後の「くれぐれも変な間違いを起こすんじゃないよ」の一言は余計だと思った。
「リンファンさん、とてもいイ人でした。ご飯もおいしかったです」
途中で多少の紆余曲折はあったものの、最終的にはマーシャがすこぶる上機嫌で店を出てくれたのも良かった。それだけでも、玲芳の店に立ち寄った価値は十分にあった。
次に向かったのは、中華街から少し離れたところにある繁華街の一画だった。昨日の晩、マーシャの髪形のことが気になっていた俺は彼女には内緒で、インターネットで検索して調べた美容院の一件に予約を入れていた。
そこは明るく
「えっと、あの……」
「つべこべ言わずに、さっさと席に着け。店の人が待っている」
明らかに挙動不審なマーシャから手にしていたバッグをひったくり、彼女を店員に押し付けた俺は、一面ガラス張りになっている店の窓際の席の一つへと腰を下ろした。
「お連れのお客様、とても綺麗な方ですね。彼女さんですか?」
途中、こざっぱりとした髪形で線が細めの、黒色のマスクを着けた若い男の店員が、ぼんやりと窓の外を眺めていた俺に声を掛けてきた。俺はマスクの奥で曖昧に笑ってごまかしながらも、俺とマーシャの年齢差でそれはないだろうと思ったが、世の中には「パパ活」なる言葉も存在することに気が付き、何とも複雑な気分になった。
ふと陳さんの別れ際の言葉を思い出し、マーシャのバッグの中から彼女のスマートフォンを取り出して、とあるアプリケーションソフトを一つ、こっそりとインストールしておいた。
陳さんは仕事に関わるようなことでは、一切余計なことを言わない人だ。それだけに、あの別れ際の一言は少し気になっていた。重大なコンプライアンス違反と言える行為だったが、致し方が無いものだと心の中で言い訳をしておいた。
「あの、コースケ……私の髪、どうですか?」
それから一時間半ほど後、店の前の通りを歩く人の流れを眺めていた俺のところに、気恥ずかしそうな笑みを浮かべたマーシャが戻ってきた。
「うん……悪くないわ」
一言だけ、俺は呟いた。ところどころが少しいびつになっていたアッシュブロンドの髪は綺麗に切り揃えられ、ハリウッドの女優もかくやという感じに仕上がっていた。
「元の素材がとても素晴らしい方でしたから、こちらも仕事のやりがいがありました」
マーシャの髪をセットしてくれていた、淡いピンク色のマスクを着けた若い女性の店員が、にっこりと笑って言った。その言葉を聞いたマーシャが嬉しそうに、小さく肩をすくめて笑った。
その後は、近くにあった店を何軒かはしごして、マーシャの服や化粧品、必要そうな小物類をいくつか
「コースケ……今日は私、色々、かなりびっくりしまシた」
帰宅してマスクを外したマーシャが、半ば呆れたようにため息をついた。一通り必要そうな買い物を終えて少し遅い夕食を摂り、家に帰ってきた時には、時計の針は二十一時を回ろうとしていた。
「いろんなことしてくれて、いろんなもの買ってくれたの、とてもうれしいけれど、ちょっと困る。私、コースケに申し訳ない」
ややぐったりとした表情のマーシャを見て、思わず笑ってしまった。
「気にするな、全部貸しだから」
そう言うと、マーシャの顔色がみるみるうちに青くなった。俺は言葉を続けた。
「冗談だよ。今日の分は全部、単なる俺の気まぐれだ。マーシャは何も気にしなくていい」
彼女の髪形のこともそうだったが、昨日の引っ越しの際に目にしたマーシャの持ち物は、どれも年頃の娘のものとしてはあまりにも質素で、数が少ないように思えた。それに、かなり年季の入った持ち物が少なくなかった。
正直なところ、最初はそこに
「もう……コースケ、意地悪言うのひどい」
小さく頬を膨らませて怒るマーシャを尻目に、俺はマスクを外しながら留守番電話の着信履歴を確認した。相変わらず、着信履歴の件数はゼロだった。
ノートパソコンの電源を入れて電子メールのチェックをしたところ、例の依頼主から返事のメールが届いていた。そこには、報酬の残額を指定された金融機関口座に振り込んだので確認して欲しいと書かれていた。早速明日にでもATMで残高照会をして入金が確認出来れば、早急に調査報告書を郵送しなければならない。
それからしばらくの間は、着信メールのいくつかに目を通していたのだが、荷物を部屋に置きにいったはずのマーシャがなかなかリビングに戻ってこないことが少し気になった。部屋でくつろいでいるだけであれば良いのだが、俺自身、彼女の行動パターンは未だ把握していない。
マーシャの部屋の扉をノックしたが、返事は無かった。
「マーシャ、入るぞ」
そう一声かけてから部屋の扉を開けたところ、部屋の中は真っ暗だった。闇の中から、微かにすすり泣く声だけが聞こえてきた。
俺は部屋の電気のスイッチを入れた。ベッドに倒れ込むような形で横になり、涙を流すマーシャの姿が目に映った。
「ダメ、コースケ、こっち見ないで」
「何だよおい、一体どうした?」
マーシャはベッドのシーツに顔をうずめ、小さく肩を震わせた。全くもって、訳が分からない。
「何をそんなに泣いているんだ、一体何があった?」
小さくため息をつくと、マーシャのくぐもった声が聞こえてきた。
「コースケ……私のこと、笑わないですか?」
「ああ、笑わない。一体何で泣いている?」
再び問いかけると、マーシャはゆっくりと身体を起こし、溢れ出る涙を細い指先で拭いながら小さな声で言った。
「あのね……私、こんなにも長い間、ずっと誰かと話をしたの、日本に来てから初めてだった。それ思うと何だか急に、とても寂しくて、悲しくて」
「何だ、それ?」
「学校では仲のいイ友達、ほとんどいない。アルバイト、みんな仕事なくなった。日本に来てから私、いつも一人で家にいた。今日みたいな楽しい日、今までほとんどなかった。もしもこれ全部、夢だったらって思ったら……」
少しずつだが、マーシャが泣いていた理由がようやく分かってきた。おそらく一番近いものはホームシックなのだろう。部屋の入口にもたれかかり、両腕を組みながら言った。
「理由は何となく分かった。俺はそんなことでは笑わない」
「……ホントですか?」
「俺にだって、似たような経験はある。ちょっとこっちに来い」
マーシャを連れて、リビング兼事務所の部屋に戻った。ノートパソコンの電源を入れ、インターネットで調べものをしながら、マーシャに言った。
「日付が変わる前に、もう一つおまけの魔法だ……ロシアのお前の家、電話はあるよな?」
「はい」
「じゃあ、その家の電話番号、このメモに書け」
「えっ、ちょっ」
「あんまり長話をされるのは困るぞ。でもそうだな、三十分ぐらいまでならオーケーだ」
受話器の向こう側から、聞きなれないロシア語が聞こえてきた。それはどうやら、年配の女性の声だったようだ。マーシャは慌てて受話器を耳に当て、何やらロシア語で喋り始めた。
マーシャが電話で話をしている間に、キッチンで火が付いたコンロに水を入れたケトルポットを置き、風呂の準備をし、沸かした湯でインスタントコーヒーを淹れた。その途中、マーシャの様子をちらりと見たが、彼女は時々目尻を拭いながらも嬉しそうに話をしていた。
マーシャが受話器を置いたのは、話をし始めてからおおよそ二十分後ぐらいの頃だった。
「コースケ、ありがとう。お父さんとお母さんと弟、久しぶりに話できまシた」
「そうか、そいつは良かったな」
「でもコースケ、いきなり私の家に電話しない。びっくりします」
笑いながらも、マーシャは少しだけ口を尖らせた。コーヒーの入ったマグカップを片手に、俺はマーシャに尋ねた。
「お前、日本に来てから一度も家に電話したことがなかっただろう?」
俺の言葉に、マーシャは小さく頷いた。
「はい。私、コクサイ電話のやり方よく分からなかった。分かっても、たぶんお金高くて電話できなかった」
「お前のアパート、固定電話も置いていなかったしな」
スマートフォンでロシアまで国際電話をかけるとなると、かなりの通話料が発生する。その点、固定電話からであれば、Lineをはじめとしたインターネット電話には負けるものの、スマートフォンよりは随分と通話料が安くなる。それでも、マーシャのような苦学生にはそれなりの負担になったことだろう。
これまでは留守番電話以外の役割をほとんど果たしていなかった事務所の固定電話機が、このような形で日の目を見ることになるとは思ってもいなかった。俺は先程のメモをマーシャに差し出して言った。
「そうそう頻繁に使われるのは流石に困るが、辛い時やどうしても家と連絡をつけなければならない時は俺に言え。この電話を使わせてやる。電話のかけ方は、このメモの通りに番号を押せばいい」
「ありがとう……でも、今の電話で弟とSkypeの使い方、連絡できまシた。これでいつでも、家族と連絡取れそうです。電話は本当に必要な時だけ、よろしくお願いシます」
通信技術が高度に発達した今の時代、海外と連絡を取るための手段はいくらでもあるらしい。Skypeというサービスの名前だけは聞いたことがあったが、そもそも自分が日頃使うことがなかったので、それが一体どのようなものなのかは、俺にはさっぱり分からなかった。
「それにしてもコースケ、何でそこまで私に優しい?」
再び目尻に浮かんだ涙を指先で拭いながら、マーシャが尋ねてきた。俺は口元にマグカップを運びながら、少し呆れた。
「お前、本当に良く泣くなぁ」
「私泣かせているの、いつもコースケね。女泣かせる、とても悪い人」
俺はあやうく、口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。何度か咳き込んだ後、ようやく口を開くことが出来た。
「お前、その誤解を招くような言い方はやめろ……さっきも言っただろう、俺にも似たような経験があるって」
デスクの上のティッシュペーパーに手を伸ばし、マーシャに背を向けて鼻をかんだ。さっきコーヒーを吹き出しそうになったせいで、鼻水は薄い茶色をしていた。
「昔仕事でフランスにいた時に、俺もホームシックになりかけたことがある。あの時は、まだ右も左も良く分かっていない俺のことを、カステルノダリに住む英語が分かるじいさんが、たまたま相手をしてくれてな。わざわざ仕事中の自分の息子まで引っ張り出してきて、自宅の電話で俺に国際電話をかけさせてくれた」
「……」
「あの頃はまだフランス語にも慣れていなくて、仕事で必要な時以外は、ほとんど誰とも喋ることがなかった……ちょうど今のお前と一緒だったよ。だから何となく、お前の気持ちは分かる」
「そうだったんだ……私達ロシア人、家族とても大事。コースケのしてくれたこと、私とても嬉しい。でもコースケ、私のためにお金いっぱい使うことになる。やっぱり申し訳ない」
しおらしくうなだれるマーシャに、ニヤリと笑ってみせた。
「俺はこれでも社長だ。少しぐらいの金は持っている、馬鹿にするな」
「シャチョーサン、オヒサシブリネっていうアレですか?」
「……お前、一体どこからそんな言葉を覚えてくるんだ?」
思わず頭が痛くなった俺に、マーシャがようやく明るい笑顔を見せた。
「昔大学のゼミの男の子に、そう言ってくれ頼まれたことありまシた。意味分からなかったので断りまシたが、あとでアキコ、私の代わりに怒ってくれまシた」
「じゃあ一応、その言葉の意味は分かっているんだな?」
俺は被りを振って苦笑した。
「話を戻すと、そうだな……前にも言ったが、そんなに金のことが気になるのなら、いつか返せる時に、返せる分を返してくれればそれでいい。それか、いつか俺がお前の国に行った時に助けてくれれば、それでもいい。ちなみにお前、どこの出身なんだ?」
「ノヴォシビルスクです。とても綺麗な、いイ街です。コースケ来てくれたら、私喜んで案内します」
おそらくは俺が、ノヴォシビルスクに行くことは生涯ないのだろう。それでも、嬉しそうに笑ったマーシャを見て、少しほっとした。
俺は風呂場の方を指さして言った。
「じゃあ、話がまとまったところで、そろそろ先に風呂に入ってくれ。俺も流石に、今日は少し疲れたから、さっさと風呂に入りたい」
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