Chapter2. Break Foolish Common Sense

Lilly1. 少女を護る影

 カバンを抜けた先はイルヴェーナだった。そこは大量の本が置かれたいかにも研究者然とした部屋で、カバンから出てきた私たちをミオさんが不思議そうな目で見ていた。


「……何かありました?」

「何も! 何もなかったです!」


 まさかカバンの中でアーシャ姉が発狂して怖いアーシャ姉になるとは思いもしなかった。今その話をしてもミオさんをいたずらに混乱させるだけなので言わぬが吉だ。


「ここはもうイルヴェーナなんですか?」

「そうだよ。自由都市イルヴェーナ。その一角にあるのが私の鍛冶屋でここはその二階。普段はひとりで寝泊まりしてるんだけど、他にも部屋があるからそこを使って」

「ありがとうございます! あのっ、何か私にお手伝いできることありませんか?」


 アーシャ姉はミオさんの開発に協力できると思うが、私は何もできないと思う。だから何かしていないと落ち着かないというか。ミオさんはうーんと少し唸ると、申し訳なさそうに答えた。


「アルセーナさんには家事全般をしてほしいかな。どうしても開発に集中しちゃうと掃除とかその辺がね」

「分かりました! その点は慣れているので!」


 慣れているというか前職はそれくらいしかすることがなかったので自然と手に馴染んだというほうが正しい。


「あとは自由に過ごしていいよ。お金の心配はしなくていいからいろいろこの街を見て回ってきたらどうかな。プトレもこの都市の中まで干渉することは許されていないからね」

「ありがとうございます」

「アルセーナさんも大体私と同じくらいの年でしょ? そういう経験はしておくべきだよ」

「ちなみにミオさんはいくつですか? 私は今年で14歳になんですけど」

「あー……私のほうが年上だねこれ。17歳だからさ、ほら。なんか負けた気がする……」

「負ける要素ありましたか!?」


 なぜかしょぼんとしているミオさん。ちらちらと私の視線が胸のあたりを突き刺しているのは一体どういうことなのかな? そんな疑問を呈するのも野暮だと思うので口を閉ざしておいたほうが良さそう。


「私はしばらくアーシャさんの様子を見ていますから、街を見てきたらどうです?」

「ではお言葉に甘えて……」


 ミオさんが私にいくつかの銀貨を渡してくれた。勇者さまと一緒にいたときの持ち合わせもあるからこの状態なら何か買うこともできるだろう。特に何かが欲しいわけではないが、念のため。


 街の外に出ると、そこはプトレに負けないほどの活気で賑わっていた。道の両端に様々な店が立ち並び、お客さんを誘導すべくいろいろな商売文句が飛び交っている。そんな光景はプトレ皇国の中ではなかなか見られない光景でとても新鮮だ。


「すごい……!」


 自然と私の目も輝いていく。これは街を歩くだけでも一日費やして足りるかどうかといったところか。まずは近場に何があるかを見ていきたい。特に食べ物に関するお店の情報は仕入れる必要がある。


 まずミオさんの工房の隣にはパン屋があり、ちょうど焼きたてのパンが出来上がったようで、芳醇な小麦の香りを漂わせている。お客さんの入りもなかなかで、こういうお店は当たりの可能性が高い。ちょうどお腹の鳴る音も聞こえたので入ってみよう。少しくらいなら食べても問題だろうから。


 店の中も結構な人がいて盛況さを感じ取ることは容易だ。ここの一番人気と書かれているパンをひとつ手に取って店員さんに渡す。その店員さんは背が高くてすごく美人で、私でもちょっと見とれてしまう変わった美貌の持ち主だった。


「この辺じゃ見ない顔だね?」

「えっと、最近ここに来たばかりで」

「あぁなるほど。じゃあうちに巡り会ったのは幸運だってことだね」

「幸運ですか?」

「そうそう。なにせうちのパンを食べちゃったら他のパンを食べられなくなるからね!」


 店員さんはそう自信満々に答えてみせた。確かにこういうパンは他ではあまり見たことがない。代金を支払って店を出ると、早速口に運んでみる。


「……! なに、これ!」


 それはあのお店一番人気のベリージャムパン。ジャムが入っているパンというのは珍しくないのだが、そのジャムの質がすごい。甘みと酸味が絶妙にマッチしているそれは病みつきになるという言葉を体現するにふさわしい味だ。パンそのものも焼きたてなのも相まってふわっと感がすごく、そのパンは一瞬にしてお腹の中へと収納された。


「(……これはすごいところに来てしまった)」


 心の中でビクビクしながらも私は街の散策を続けた。イルヴェーナという街は中央に運河が整備されており、そこからはひっきりなしに荷物を積んだ舟が出入りしている。この運河が二本の川を結びつけるようになっていることからイルヴェーナが発展したとアーシャ姉が言っていた。


「おおっ見ろ! プトレ皇国の最新輸送船だ!」

「あんなデカい船を作ってるのかプトレの皇帝様は」


 プトレという言葉に一瞬驚いて物陰に身を潜める。そっと覗くと、そこには普段私がよく見ている少人数で乗れるタイプの舟とは一線を画した大きな船がやってきた。その船を通すためだけに橋が上げられているのを見ればその強さを理解するのが容易い。


 これは少し面倒なことになったかもしれない。すぐにミオさんの工房へ引き返そうとしたとき、突然後ろから私の手を掴まれた。


「えっ」

「こっちに来て」


 声を上げる間もなく、引っ張られるように建物の中へと連れ込まれてしまった。もしかしてプトレの尖兵に捕まってしまった? イルヴェーナは安全だって言ってたけどプトレの人が私を連れて帰るって可能性もあるよね。浮かれすぎてたかなと今更自戒する。


「手荒な真似をしてごめんなさいね。貴女をプトレに渡すわけにはいかないから」

「あのっ、あなたは一体」


 目の前の人は顔が隠されていて誰なのか全くわからない。服も全身をぴっちりとした黒い革みたいなもので覆われているおかげで特徴という特徴が消されている。どこかで聞いたことがあるような声をしているはずなのだが、その声の主を思い出すことができなかった。


「しばらくここに隠れていなさい。君のお姉さんが必ず迎えに来るからね、アルセーナ」

「あのっ、なんで私の名前を」

「今は話せない。それでも貴女を守るという誓いだけは本当だから信じて」


 そう言い残して黒ずくめの人が消えてしまった。いきなり現れてこの仕打ち、正直怪しさ以外の何ものでも無いが、なぜか私はあの人の言うことが正しいように思えてならなかった。


 その後しばらくして本当にアーシャ姉がやってきて私を迎えに来てくれた。アーシャ姉に連れられながらミオさんの家へと帰る道すがらに二人でパンを買って帰る。アーシャ姉もその味に舌鼓を打っていたが、なぜかあの変わったお姉さんは姿を消していた。

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