第35話「DKもダメだよ」
日もすっかり沈み、バイトを終えて自宅の玄関を開けた。靴を脱いでいると後ろから声がかかる。
「あ、佐原くん。おかえりなさい」
振り返ると、たまたま出迎えてくれたのは虎さんだ。初労働で疲れたからとにかく腹が減った。早く武田さんの飯に有り付きたい。
「ただいま武田さん。ご飯出来てる?」
「はい、出来てますよ」
「今日のメインは?」
「冷製トマトパスタです」
おっ、今日はイタリアンか。しかも冷製パスタと来た。暑い夏にはピッタリだし、トマトの程よい酸味とパスタの塩っけがベストマッチしてるに違いない。
冷製パスタは日本生まれでイタリアにはほぼないから、イタリアンと呼ぶべきか論争はこの際置いておくとしよう。
食べる前、いや見る前からでも分かるよ。こりゃ絶対に美味い。
帰宅ルーチンを済ませて食卓についたあと──俺の予想は見事に的中。さっきからチュルチュルが止まらない。フォークで巻き巻きなんかしてられないよ。チュルチュルだよ。
今なら自信を持って言える気がする。
俺の胃袋は宇宙だ。
誰かこのチュルチュルを止めてくれ。
「佐原くん、今日はいつにも増して食欲が凄いですね……」
「うん、想像してたとおり労働のあとのご飯は一味も二味も違うね。今日も美味しいよ。本当にありがとう武田さん」
「いえ……ふふっ」
今日の武田さんは機嫌が良さそうだ。
段々とマスク越しからでも表情がなんとなく分かる様になった気がする。
「ところでアルバイトはどんな感じでしたか?」
「うん、覚えることが多そうだけど何とか続けられそうだよ。あっ、そういえば本当にたまたまなんだけど、立花さんもおんなじとこでバイトしててさ。ほんとビックリしたよ」
「え……」
武田さんはピシリとフリーズした様に固まった。俺と同じでそんな偶然があるのかと、思考が追いついてないのかな。
武田さんはヒョロヒョロと動き出すと……ソファにドスっと倒れ込んだ。
俺の角度からだと背もたれでその姿は見えない。何やら手足をバタバタさせているっぽい。ソファ水泳……?
それと微かに「ふきゅ〜、ふきゅ〜」と変な息継ぎが聞こえてくる。
恐らくソファに顔を押し当ててるであろう響きだ。
チュルチュル、チュルチュル。
そんな謎の行動に対して疑問を口にする暇もなく俺の食欲は続いてゆく。
しばらくすると武田さんは背もたれからピョコッと顔を出した。
虎さんがこっちを覗いてる。可愛い。
「私も佐原くんのところでアルバイトします」
「え……?」
チュルチュルが止まった。と同時に一気に満腹感が込み上げてくる。
どうやら俺の胃袋は宇宙じゃなかったようだ。
それにしても何で武田さんは突然バイトするなんて言い出したんだろう。
「武田さん、何か欲しい物でもあるの? 何だったら買ってあげるよ? あんま高過ぎないもので良ければだけどさ。日頃の感謝もあるし」
「欲しいものはあります。でもお金じゃ買えないので大丈夫です。自分で手に入れますので」
お金じゃ買えないものか……あっ、分かったぞ。社会経験だな。確かにこれは自分でしか手に入れられないものだ。
それにウチから通うんだったら、ファミレスなごみは都合が良さそうだしね。
ただ解決しなければいけない問題があるんだけど、武田さんは分かってるのかな。
「それはそうと武田さん。さすがにタイガーマスクをしたままでバイトは無理だよ? それ外さないと。あとマントもね」
タイガーマスクを被った店員がいたらお客さんは和めないだろうからな。子供は喜ぶかも知れないけどさ。
武田さんはハッと息を吸い込んだ後、またソファ水泳を始めた。
だからなにそれ。もしかして今はやりのエクササイズか何かですかね。俺が知らないだけでSNSでバズってるのかな。
ふきゅふきゅが鳴き終わると、また背もたれからピョコッと顔をのぞかせた。
「それじゃあ、痩せたらアルバイトします」
「いまタイガーマスクを外すという選択肢はないの?」
「ありません。ジャジャーンは絶対にやります」
鉄の意思を感じる。一体どんなジャジャーンが待っているんだろう……。
*****
翌日もバイトに出勤だ。
着替えを終えてスタッフルームに出ると、立花さんがテーブルに座って待機していた。出勤前の僅かなひと時。あぁ、何たる幸運。
「葉くん、おはよう」
「おはよう、立花さん」
俺は立花さんの向かい側の椅子に腰掛けた。
何やらニコニコで上機嫌な様子。今日はいつにも増して笑顔が可愛い。何か良いことでもあったのかな。
あれか? 新とデートの約束でもしてるとか。突然バイトし始めたのもデート代とかオシャレ代とかかな。ちょっと訊いてみよ。
「立花さんってなんでアルバイトし始めたの?」
「うーんとね、餌代を稼がないといけないの」
「餌代? ペットの?」
一瞬、立花さんの視線が左上に逸れたような気がする。何か気になることでもあったのかな。あ、あれか。壁に貼ってあるシフト表。
「……うん」
なるほどね。確かにあのデカいゴールデンレトリバーの餌代はかなりかかりそう。
汗水垂らして動物を
ガチャリとドアが開くと副店長が入室してきた。どうやら休憩時間のようだ。
「副店長、お疲れ様です」
「おはよう、佐原くん。今日は忙しいと思うから覚悟しててね」
「マジですか……じゃあ、ご指導のほど宜しくお願いします」
「はーい」
副店長はすっかり元気になったようだ。何かが吹っ切れたみたい。
帽子を取りながら俺の隣に腰掛けて来た。ファサファサと頭を振ると香水とは違う香りが漂ってくる。そもそも飲食店だから香水NGだし。
するとなんだ、大人のフェロモンってやつですかね。あれ、副店長って……こんな色っぽかったっけ。
そんな副店長に立花さんはジト目を向けながら謎の言葉を口にする。
「副店長……ダメですよ。DKもダメですからね」
DKってなんのことだって思ったことだろう。だが建築士の父を持つ俺に抜かりはないのだ。
ダイニングキッチン(Dining Kichen)
あれ、何で副店長はダイニングキッチンはダメなんだろう……。
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