第29話「ガブリ」
夕方には夢のようなプールから帰宅。シャワーは浴びてきたけど何か気持ち悪いから今日は晩飯の前に風呂に入ろう。
廊下を歩いて直接風呂場に向かっている途中、トレーニングルームの扉に妙な貼り紙があるのに気がついた。なんだこれ。
『この時間帯、葉の入室禁止』
これは父さんの字だな。何でまたこんなもの貼ってあるんだ?
今日のプールは武田さんも誘ったけど、痩せる前だし筋トレもあるからと断られていた。いつもの時間帯ならふにゅふにゅ言ってるはず。
俺は扉に顔を寄せて耳を澄ました。
「ふん! ふん! ふん!」
父さんのうめき声だけが聞こえる。ふにゅは聞こえてこない。
ま、まさか父さん……トレーニングルームで武田さんにエッチなことしてるんじゃないだろうな。母さんに言いつけちゃうぞ。これは離婚の危機だ。
俺は堪らず扉を勢いよく開け放った。
バンッ!!
「そこまでだ! 何やってるんだ! 父さんばっかりずるいぞ!」
「何って、筋トレ以外に何がある」
180kgのバーベルを置いた父さんが当たり前の答えを述べた。
どうやらベンチプレスをしていただけでやましいことはなかったようだ。離婚の危機は回避。よかったよかった。
「あれ、武田さんは?」
「千鶴様なら30分くらい前にランニングを終えて出てったよ。というか千鶴様がいたらどうするんだ。入室禁止の貼り紙があっただろ」
「だって父さんが俺に隠れて変なことしてるのかと思ったんだもん」
「馬鹿かお前は。俺が変なことしたいのは母さんに対してだけだ」
「あー聞こえない。聞こえませーん。あー風呂だ風呂」
俺はトレーニングルームを出て再び風呂場に向かった。
そう言えば夏休み中は会わないとか言ってたな。それで俺の入室を禁止してたのか。なんだか徹底してるけど、絶対パッタリ合うだろこんなもん。
脱衣所の扉を開けるために手を掛けようとしたとき、扉が自動で開かれた。
ガラガラガラッ。
「あっ……」
──虎がいた。
パッタリ虎に遭遇した。その虎の生息地はインドでも動物園でもない。リングの上。
タイガーマスクを被り、体を隠すようにマントを羽織った人型生物が脱衣所から出てきた瞬間だった。
「え……ど、どちら様ですか?」
「……武田です」
「な、何やってるの武田さん。そんなプロレスラーみたいな格好して……」
「こうすれば佐原くんに家の中で会っても大丈夫かなと思いまして」
「そこまでしますかね普通……」
どうやら武田さんは徹底してジャジャーンをやりたいようだ。そこまでして俺を驚かせて叶えてもらいたいお願い事とはいったいなんなのだろうか。
武田さんは少し俯いたあとにボソッと呟いた。
「それに……やっぱり佐原くんと会えないのは寂しいので……」
「へ?」
「わ、私はこれからお母さんと晩御飯作るのでっ、おっ、お風呂ごゆっくり!」
武田さんは急に大声を出すとそそくさとキッチンの方へと消えて行った。
俺も風呂の湯に浸かっていつものリラックスタイム。のはずが、なんだろう、設定温度は42度。いつもと変わらない適温なのに、今日はやけに熱く感じた……。
*****
風呂を上がってリビングに入ると虎に料理を教わる母さんの姿があった。美紀も平然とソファで寛いでる。
前から思ってたが、うちの家族の適応力の高さは一体なんなんだ。もう少しさ、疑問に思わないか。この非日常感を。
「ただいま美紀」
「おかえりお兄ちゃん」
「ところで美紀、キッチンに虎がいるな」
「虎がいますな」
「おかしいと思わないか?」
「可愛いと思う」
美紀が虎好きなんて初耳だぞ。
妹よ、虎はネコ科だがいくら猫好きでも危険なものは危険なのだぞ。確かに海外では虎を飼っていたりするが、一歩飼育方法を間違えればガブリだ。
「どうしてあそこまでする必要があるんだろうな」
「はぁ〜、お兄ちゃんはやっぱダメだね〜。そんなんだから……」
「そんなんだから?」
「おっと、なんでもな〜い」
「そこまで言ったなら言ってしまいなさい。こちょこちょの刑だぞ。この間のプリンの恨みを喰らえ」
「くひっ、やめっ、くすぐった、ふひひ」
妹とじゃれ合ってると虎にご飯ですよって言われた。普通、逆ですよね。
今日は武田さんも一緒に夕飯を食べていくみたい。その姿はタイガーマスクだが、もう気にしないでおこう。
武田さんと父さんだけは別メニュー。父さんはいつもの減量期に入ったようだ。
「美味い……美味すぎる……減量期にこんな美味い飯が食えるなんて……あぁ、千鶴様……」
父さんは泣きながら夢中で料理を口に運び始めた。
どうやら父さんは既に、ガブリと噛み付かれてしまったようだ……。
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