神天魔創世記~元天使と元悪魔の理~

黒川ノ犀

序盤 ユルミルラリューンとの会話

 西暦2050年、1月1日、深夜22時。

 日本国の準2級城跡地。


 元旦というめでたい日に5歳の誕生日を迎えた黒音玖影政くろねくかげまさは、木造二階家の自室ベッドにて、ひとり眠れない夜を過ごしていた。


 いつもは深い眠りの中で私腹を肥やしている最中だというのに、今日に限って、いや、今日という特別な日だからこそ、影政の興奮は冷めやまらない。

 月明かりに照らされたベッドの枕元には、バースデーレターと、外装が雑に破かれた、小さな赤い箱が散乱していた。

 どちらも、両親からの誕生日プレゼントだった。


 しばらくして、彼は瞳をパチリと開けた。

 そしてベッドから身を乗りだし、スリルを感じさせる暗闇のなかを迷わずに進んでいく。

 目的地は、多くの人々が安寧の地と称するトイレであった。


(お夕飯は豪勢だったなあ。いちごケーキのあとに、ももティーもでたぞ! あーあ、明日も明後日も、誕生日だったらいいのにな。そうしたら、祝福された毎日が約束されたも同然なのに……。あれ、どうしてぼくは、日々に恵みがないなんて?) 


 無邪気な深夜テンションを堪能していた彼は、えらくご機嫌な笑顔を浮かべ、卩の字形の廊下を歩いていく。


 奥まった場所にあるトイレの扉をそっと手前に引いた彼は、扉を最大限に開け放ったまま、ズボンをするっと下ろした。

 どうやら彼にとって、この行為は悪であるらしかった。

 その証拠に、寒さをものともせず、暗がりのなか、五歳男児がニヒルに笑って便座に腰を沈めていた。

 その姿はきわめて奇妙で、ある種の恐怖を悟らせるほどの狂気を孕んでいた。

 すでにこのときから、影政は外見と内面が一致していないことが多かった。


 便座に腰を下ろし、うずくまった彼は、またしても、不思議な疑問を抱く。

 そしてふと近そうで遠い、手を伸ばしても決して届きそうにない、さざなみ打った黒い水面に違和感を覚え、無表情でそれを見つめ返した。


 つまり、彼は顔を股の間に突っ込んで、便器のなかを覗き込んでいたのだ。


 黒い水面に呼びかけても反応はない。

 違和感も一瞬。

 夜の戯れだろうか。


 なぜだか急にその謎めいた黒い水面から視線を外せなくなった彼は、短いとも長いともいえないあいだ、ずっとそこに注意を割いていた。

 すると、またしても目の前の黒い水面がさざなみ打つではないか。

 はじめは、何が起こったのか、さっぱりわからなかった。トイレの故障と思ったくらいだ。と、ふいに、その黒い水面のさざなみが、いきなり激しさを増した。


 影政は、この不思議な光景に胸騒ぎを覚えると同時、心のどこかで既視感を感じたのだった。


(あれれ、なにかがカチッとハマったよ。これ、なんだっけ? ……ああ!)


 しかしそれ以上、彼に考える余裕などなかった。


 なぜなら、その黒い水面からいままさに、白よりも真っ白で儚げな人の腕が枝のようにスルリと伸びてきて、影政を優しく抱き上げたからに他ならない。

 彼は声すら上げず、ただただ無抵抗に持ち上げられ、誰が自分を呼び寄せたのかと疑問に思いながら、溶け爛れたようにばかでかく広がった便器をこれでもかと睨みつけていた。





 ここは、大悪魔が創造した小さな「精神世界」夢幻廻廊むげんかいろう 。


 外殻は、絶えず生きているようにうねりまわる、古色蒼然とした廻廊に包まれていた。

 地上は、至る所に正八面体遺跡が散乱し、その壁面には、摩訶不思議な魔法記号と、奇っ怪な生物絵がビッシリと刻み込まれていた。

 上空には、天の廻廊より吊るされた無数の檻と、何度も使用されたであろう痕跡を残す実験土台が浮遊する。

 地上を這うようにして流れる水路には、水色発光した、聖水がゆるりと流れていた。


 こんな不思議空間のなかにあって、なお目を引くものがあった。

 それは他でもない、不浄の都を浄化せんとする強い意志を持った水晶花、アイスメルネルだ。

 天にしぶきを吹き上げるかのごとく、大地に美しい花をたくさん咲かせていた。


 影政は、天より吊るされた天秤ばかりの皿に乗せられ、ゆるりと降下する。

 降下しながら情景を懐かしむ彼の瞳には、歓喜と愉悦、次いで嗜虐と残虐が入り混じった、深く深い真黒が鋭い輝きを放っていた。


 黒髪短髪の目つき鋭い幼年は、いつしか、青年のそれへと姿を変えていた。


 これみよがしに乱立する、正八面体遺跡群。

 奇傾天秤を使用した粋な演出。

 よどんだ空間を聖なる場に整える力量。

 世界間転移。


 これら高度な振る舞いを遊び感覚で行える者は、滅多にいない。

 そう、これは戯れなのだ。

 影政は、自身を呼び寄せた不届き者の正体を得た。





「ようこそ、私の夢幻廻廊へ」


 影政の前に立ち、初めからそこに立っていたかのように礼儀正しく腰を曲げ挨拶をしたのは、怒る天使も黙る超越神だ。

 彼女は、簡素な白地の布をまとい、枝のように細く白い指で、サラッと垂れた白髪を掻きあげた。


 以前と変わらぬ、凛としたその佇まいに、影政はとても安堵していた。


「久しいな、ユルミルラリューン。息災かと問いたいところだが、その冗談はいただけない」


 ユルミルラリューンと呼ばれた超越神は、彼を覗き見ながら、屈託のない笑顔で笑った。


「これは手厳しい。ここの管理を任されてから、早十年。いや、そちらの世界では、数十億年でしたか? そうなると、もはやここは、わたしの聖域だといっても過言ではないのでは?」


 影政は記憶をさかのぼる。

 それによると、夢幻廻廊の管理を彼女に任せはしたものの、所有権を放棄したつもりはなかった。

 ただ、生まれ変わった場合は話がどう転がるか不明であったために、彼は矢継ぎ早に話題を転換する必要に迫られていた。

 その思考と同じくして、彼は祭壇から飛び降り、歩行性のとても悪い石畳を歩きだした。


「馬鹿をいうな、神に時効なんてない。おれは自身の所有物を他者に侵されるのが、嫌いだ……知ってるだろうに、冗談が過ぎるぞ、まったく、それはそうとユルミル、今日は随分と調子いいじゃないか。さきほどの演出は実に見事だった。神力も、上手く使えているようでなりよりだ」


 お互いに、一、二言目で調子を取り戻し、影政はユルミルラリューンを昔の愛称でそう呼んだ。

 それに気を良くしたのか、寛大なのか、どうでもいいのか、ユルミルは言葉の流れに便乗した。


「はい、わたしだってもう、以前のような未熟な天使ではないんです!」


 胸を張り、成神ぶるユルミル。

 だが、その本質は違う。


「しかし成長にもいろいろとある。内面ばかり磨いていては、ダメということだ。以前にも話したと思うが、おれは手のひらサイズよりも少し大きいものを好む」


 神の外見は、神力の豊かさに影響を受ける。

 暗に、外見からは以前との成長ぶりが伺えないことをけなし、ユルミルのコンプレックスを刺激した。

 これは、さきほどトイレで起こった臭い冗談の返礼でもあった。


「どこを見ているんですか! その呆れた視線でわたしを見るのはもうよしてください! これは、ちっぱいではなく! ちょうどいい曲線美を飾るに相応しいたおやかな胸部なんです!」


 ユルミルは鼻息あらく、歩きながら、器用にステップを踏んで見せた。


 当時とは違い、いまのユルミルは自身の肉体にずいぶんと自信をもっているようで、体のラインぴったりに張り付いた一枚布をシャッとなで下ろし、どこで覚えてきたのか、さまざまな悩殺ポーズ――本人はそう思っている――を披露しだした。


 影政に神力の豊かさを見せつけようと自慢気にアピールする彼女の姿は、まるで水を得た魚のように活き活きとしていた。


「悪かったよ」


 影政はどうでもいいと手を振った。

 だが、ユルミルは雷に打たれたように体を震わせ、瞳孔を大きく開いた。


「アトモスフィア様が謝るなんて、転生効果は絶大だったというわけですか!」


「おれをそのような悪しき名前で呼ぶんじゃない。いまは影政だ」


「ああ、すっかりお丸くなられて、なによりです。影政様を召喚せしめたときには、ちっとも悪そうな目つきが変わっていないじゃないかと思って、後悔していましたよー」


 ユルミルは悲惨顔で大袈裟に頭を振ってみせた。


「この鋭く大きな目は生まれつきのもので、おれのトレードマークなんだ、よく覚えておけ! けれど、まあ、なんだ、久しぶりに旧友に会えて、おれは嬉しいよ」


「わたしもです。誰かとこんなに楽しくお話をしたのは、ほんとうに久しぶりでした」


 彼女はニコニコしながら白髪を揺らす。


「それで、要件はなんだ? おれたちの協定を破ってまで接触してきたんだ。大事に違いない」


 影政がいきなり核心に触れようとして、ユルミルは一瞬、寂しそうな表情を見せるが、それも仕方ないと気持ちを切り替えたのか、態度を改めた。

 歩みも止めた。


「影政様に、お願いしたいことが御座いまして、この度は、夢幻廻廊に足を運んでもらいました。ご存じのとおり、わたしの主な役目は、異世界エメスの環境革新にあります。これまでは、わたしに対する皆の信仰心を集め、それを神力に変換することで、微力ながら、世界にもその一端を環境革新という形でお返ししておりました。しかしながら今回、エメス各地にて、とうとつな魔力枯渇の発生が確認されました。その影響で、徐々にではありますが、生命体の生活基盤に支障がきたし始め、解決の目処が一向に立たないことに不満を漏らしだした皆の信仰心に、小さな揺らぎが生じました。これをきっかけにしてかどうかは定かではありませんが、世に、迷宮と呼ばれる魔物の巣窟が出現。追い打ちをかけるように、ことの原因究明に当たっていた使徒天使たちが、次々と迷宮内で行方不明に。不思議なことに、この迷宮は、超越神であるわたしの干渉を拒みます。

 迷宮の目的は依然不明。超越神の名をもって、世界に対する直接的な干渉を大々的に実行しようかとも思いましたが、失った神力を取り戻せるだけの求心力を得ているとはいえず、いまだ、決断しかねているのが現状です。

 いい意味での世界に対する抑止力であった影政様が、エメスよりいなくなって早10年。最大の抑圧がなくなった途端に、世界各地にて争いが勃発。これに拍車をかけるように、今回の迷宮騒動。所属不明の魔物たちが、世に放たれることになりました。これでは、生命体の心は以前にも増して乱れる一方です! 八方塞がりになったわたしは、唯一神にどうにかしてほしいと頼み込みましたが、『仲間を頼るのじゃ!』と暢気なことを言われ……もうどうしたらいいか分からないんです!」


 ユルミルは、よほど心労が溜まっているのか、しだいに語気は荒くなり、終いには、目元をおさえて泣きだした。

 相当のストレスを抱えているのは明らかだった。


「いまが正常、だということはないのか、ほんとうに? 昔、あれほど話し合ったじゃないか、『生命の存在意義に最も重要なことは、競い合うような種の繁栄を辿った進化の過程にある』と。たった少し距離を置いただけで、おれたちの共通理念をもう忘れたのか? 『生きとし生ける生命すべてが生にしがみつかんと奮起する世界こそ美しい』これも忘れたか? それとも、これら答えが間違っていると、思い至ったのか? どうだ」


「覚えていますし、その考えにはおおむね賛同しております。ですが、生命体に宿る魂は、決して消耗品なんかじゃあないんです。絶対に! であれば、常にそれらを奮起させておくことなんて、不可能です。いいですか、生命体にも、あの安らかな大地同様に、平穏のときが必要なんです!」


「……その口ぶりだと、なにかしたな?」


「世の中は、影政様みたいに強い人たちばかりではありません。この情勢下でも、心弱き者・力なき者は目立たないだけで、ひっそりと、耐え忍んで生活しているのです。そればかりか、震える心を必死に押し殺し、自分を誤魔化して奮起するような者もあとを絶えません。これらは、決して健全であるといえない! それらを蔑ろにできるようであれば、わたしは神様などという、大それたものにはなっていなかったでしょう」


 目まぐるしく変化する世界情勢のなかであっても、力なき者に希望を与えたい、彼女らしい善行思考だ。

 そして、ただの生命体にすぎない彼らに直接的な神の力を及ぼすことによる弊害、その可能性を理解してないながらも、ユルミルは我慢ができずに、手を差し伸べたらしい。

 ことによると、彼女の性格上、まだ手をこまねいているのかもしれないが。


 これでようやく、影政との微妙な意見の食い違い箇所が見えてきた。

 どうりで、悩みの種が消えないわけだ。相談相手がほしくなるのも頷けた。


「わたしはただ……あなたに……」


 いまにも倒れそうなユルミルは、なにかに縋りつきたい思いに駆られ、ふいに影政の手を取った。


「生命の存在意義を極端に加速、または停滞させれば、予定調和的ななにかが世に放たれてしまうかもしれない……かつてのおれのように。それに知っただろう、神の手を広く使えば、すべてが狂いだすってことを……そうなると、誰にもなにも救えなくなるな……そうする勇気が持てなくて、おれのところへ足を運んだんだろうが、おれがユルミルにしてやれることは何もない。昔もそうだっただろう……結局のところ、おれがどうのこうのというよりも、ユルミルがほんとうに気がかりなのは、世界変革してしまったあとの、予測不能な未来のことなんだろう?」


 影政は、正八面体の小さな瓦礫片を乱暴に蹴飛ばしながらそう答えた。

 ユルミルは、悲しそうに押し黙った。


 彼が言う、かつて生み出されたよからぬもの、それは、彼が捨て去った過去の自分。

 生まれてきてはいけない存在。

 絶対悪であった。


「ああ、くそ! 『種の繁栄に一定の犠牲はつきもので、必要な消耗品にすぎないそれらをかえりみる時間は無駄なのだ』か。あんなやつの言うことなんて、忘れてしまえ! 忘れろ! 忘れろ! ――ああ! ユルミル、おまえはなんて優しいんだ」


 なにかを吹っ切った様子の影政は、ユルミルの頭を手繰り寄せ、そっと愛でるようになでた。

 抵抗はいっさいなかった。

 ただ彼は、ふいにまた落ち着きを取り戻した。


「しかし、おれにはすべて関係のない話。それに役不足だろう。すまないが、他を当たってくれ」


 彼はまったく悪びれず、残念そうに協力できない旨を伝え、ユルミルを突き放した。

 けれど彼の口元は、悪魔的にえらく吊り上がっていた。

 これはもう、発作に近かった。


「返します! 返しますよう! 以前、影政様が私に譲渡した魔力をぜーんぶ返しますから、助けてください!」


「ほんとうに、いいのだろうか? おれが魔力を譲渡したおかげで、ユルミルは他の天使どもを差し置いて、超越神たる存在に昇華できたのであろう?」


 ユルミルの提案は、彼女自身の弱体化を意味する。

 事態は思っている以上に深刻そうだと、このとき初めて彼は現実に引き戻されたような気がして、高鳴る心臓を、右手で押さえこんだ。


「構いません。そのかわり、わたしと使徒契約を結んでください!」


 ユルミルは、口を真一文字に固く閉じ、頑固一徹な性格を見せつけた。


「おまえなあ……」


 影政は呆れてため息を吐く。

 しかし脳内では、様々な考えを巡らせていた。


「そういえば、記憶はいつ戻ったんですか?」


「前兆はあった。これまでに、何度も地球で転生を繰り返し、ようやく人間にまで至れた現在の記憶と、俺の原点でもある、苦い悪魔の記憶。これらを決定的にすべて思い出したのは、この夢幻廻廊に招き入れられた瞬間、だと思う。あれ、めまいがしてきたぞ、なあ、ユルミル、これほどまでの情報量、人の身でよくもまあ記憶回路が焼き切れなかったものだな? え? 今更ながらに、おれはおれに感心するよ、は、は、は」


 嫌な予感がして、彼は考え込んだ。


「ふふん、やっと気付きましたか! わたしが5年の歳月をかけて、影政様の心身を万全に調整しました! 大成功ですね!」


(なるほど、お互い様ってやつか)


 あっけらかんというユルミルだが、それはつまり、今回の顛末はすべて確信犯であるということ。

 こうなるともう、どこからどこまでが真実か分からなくなってくる。

 けれど、超絶愉快な影政にとって、もはやそれはどうでもいいことだった。


「いやー、ほんとうにもう参っちゃいまして。いつぞやの好き勝手し放題の悪魔のことを思い出しましてね、未だに遊び呆けていたので、巻き込んじゃおうと思ったわけですよ。われながら、妙案です! 実に妙案だ!」


 ユルミルは一切悪びれない。


「まったくおまえというやつは、相も変わらず愉快なやつ。大変なんだろう? 手を貸してやってもいい。ただし、その使徒なんちゃらの提案を受け入れるには、こちらからの条件を山のように飲んでもらう必要がある」


「はえー。お手柔らかにお願いします」


 ユルミルは、深く腰を折って丁寧に頭を下げた。

 便宜を図ってくれ、との意図もきっとあるはずだ。

 なにしろ、元悪魔との契約だ。

 小さな嘘ひとつで大事になることは周知の事実なのだから……。






 知ってのとおり、ふたりは長い付き合いで、天使と悪魔であったときからの旧友である。


 昔々、天使族は、唯一神に認められて超越神に昇華するための過酷な修行を行っていた。

 その最終試練として課せられたのが、蔓延る悪魔の素行改善という難題――天使は自らが思考する真理に真っ向から背く悪魔を許せず、無条件に敵視・侮蔑、場合によっては裏で抹殺していた事実ーーがあった。


 これには、成績のいい天使から優先的に担当悪魔を選別できるという暗黙の掟があったために、天使位階として末端のユルミルは、誰もが引かない大一番の外れクジを引く羽目になった。

 それは言うまでもなく、当時、エメスに一番の影響力を保持していた大悪魔のことである。


 幸いなことに、当時の影政は、ちょうど、思考・感情の殻を破っていた。

 だからこそ、彼の心に突然わいてでた、天使と共存するという突拍子もない考えが、まさに、希望の光のように彼の心に降り注いだのだった。



 よみがえる、遥か遠い過去の苦い記憶。



 悪魔族は、種族特性として、残虐で残忍、嗜虐的な性格をひけらかす性質がある。

 それに加え、思考・感情の抑制もあった。


 この哀れな種族は、喜怒愛楽のなかで、生まれつき喜哀が欠落しており、だからこそ怒楽のみで行動する。

 よって、他者を顧みることなく、自身の願望や衝動を剥き出しに、自分勝手に振る舞うようになってしまう。


 もう一度言っておく。

 これが、悪魔の性質なのだ。


 この性質により、悪魔は群れない、というより群れを形成できない。

 悪魔はひとりの楽しみを謳歌し、仲間と語らう喜びを一生分かち合えない孤独の王として誕生する。

 自分がこの世からはみでた歪な存在だという認識すらない。


 では、なぜこのような存在が、世に解き放たれているのだろうか。

 悪魔の存在は、大きな意義を持つ。


 悪魔の対として語られるのは、いつの世も天使。


 神の定まっていない世界では、天使は神の霊でもなければ超自然的な存在でもない。

 物質世界に縛られた、羽ない生物だ。


 天使は自ら思考する真理をなによりも重んじ、他者に強要する。

 自分たちで決めた物事の正しい順序・道筋の意に反する者には、厳正に弾圧・処断した。

 その性質が災いして起こったのが、叛逆種の根絶と、彼らに付き従うだけの無価値な生命体の量産であった。

 意に反する穏やかな個は、否応なく強制させられた。

 これは、行き過ぎた世界意義に該当した、かもしれない。



 悪魔は、こうした上位者からの処分執行に怖気づいた臆病者、自由意思を強制され挫かれた諦念者、大樹の根に深く囚われ、心身ともに疲弊した、もとは善良であった日陰者、いずれも、弱者の渇望から誕生したといっていい。

 だからこそ、この愚かで悲しい、必要とされる絶対的な悪は、愛を知らない。


 それに、悪魔は天使より数こそ少ないが、圧倒的な力を保持する。

 そのため、もしそのような存在が高度な知恵を有した場合、世界情勢は一夜で塗り替わることは自明である。

 気の狂った権威ほど危険なものはない、というやつだ。

 それゆえ、悪魔は知恵をつけられないように、感情を抑制されて生みだされる。


 誰に?


 その答えは、影政のように存在進化を幾億と繰り返した存在であっても、いまだ明らかにできていない。

 影政の言う予定調和的ななにかとは、すべて、仮定の話にすぎないのだ。


 話を戻す。


 つかみどころがない、一風変わった稀有な存在、ユルミル。 

 彼女は困ったことがあると、おどけたり、変にテンションを上げて見せては、相手の様子を窺う癖がある。

 その態度もそうだが、ありのままの感情を直接ぶつけてくる姿も、以前と変わりはなかった。


(おれは転生を繰り返すことで、すこしは変われたんだろうか? 変わったって、言ってくれよゴッド……そういえば、ユルミルのやつ、興味の湧いたことにならなんにだって挑戦していたな。悪魔の実験にだって、興味津々に付き合っていたくらいだ。もしや、そのなにかに挑戦し続ける姿勢こそが、やつなりの善行思考への近道ってわけ? わからん、わからんが、ユルミルもはなっから善良な天使だったわけじゃあるまい。なにかしらの分岐点が、存在したはず。ならばおれにだって、ユルミルと同じような道を辿れば、いつかは善行思考を手に入れられるんじゃないのか?)


 ふいに彼は、何度目かわからない、希望の光を見た。 


(自発的になにか新しいことに挑戦することで、明るい未来がやってくるっていうのなら、おれはやるぜ、やってやるぜ、動くなら、いまだ! タイミングは、絶対にここ!)


 衝動的に意を決した影政は、ユルミルを真剣に見た。


「顔を上げろ。思えばおれは、ユルミルのことが大好きだった」


「え? ええー!?」


 ユルミルはあからさまな動揺を見せ、そそくさと佇まいを正した。


「覚えているか? 人狼幼女懇願事件を」


「もちろん覚えていますよう。彼女はただ、両親の気を引きたくてかくれんぼをしていただけなのに、あなたが勘違いして、あの子を神隠ししてしまった話、でしょう? そのせいで、わたしは大変な目にあったんですからね! なんであのとき、わたしも一緒に神隠ししてくれなかったんですか! あのあと、娘を探しにきた白銀人狼族、第三師団長ファルゼといったら、もう怖くて漏らしてしまっ――あっ!」


 ユルミルは、過去の汚点に身震いし、羞恥に顔を赤く染め上げる。

 ちなみにこの事件は、両親と喧嘩した、毛色違い幼女の悲しい思い込みから始まった、ほっこり話である。


「それが何か?」


 ユルミルは自ら吐露した秘密をなかったことにしたいのか、少し怒った口調で聞き返す。


「またあのときのように、ふたりして楽しく遊ぼうじゃないか。今度はふたつの世界を盛大に巻き込んで、この世のすべてを明るく染め上げよう。きっとうまくいく、なにしろ、これまでのおれたちに、不可能なことなんてなにもなかったろう? 道はあるんだ、目の前にな!」


 影政はいつになく上機嫌に言った。

 そしてなにを思ったのか、彼は目の前の水路に流れる聖水を汲み取り、顔を何度も洗って見せた。

 それから、その聖水を口に含み、ごっくんする。


「あのー、ものすごく悪い顔をしていますが、本当に大丈夫なんでしょうか? よからぬ悪さは刺激的でスリル満載ですけれど、なんだか急に不安になってきましたよー」


 影政のペースに持ち込まれ、ユルミルは急に頭を抱え込みはじめた。


「いい案がいくつもあるんだ。とありあえず、おれが以前、譲渡した魔力を盛大に使用して、地球とエメス、このふたつの世界を神秘的にくっつけよう。なんとかなる、あとは神力で――」


 のちに地球では、西暦2050年1月1日に起きた『世界変革』により、神の存在を知覚。

 人類はこの祝福すべき日を大いに祝うべく、祝杯をとった。

 それこそ、神の存在が証明された歴史的な特大記念だとして、「神聖歴1年」と暦を改めるほどに、浮かれていた……。



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