ライセと唯香
「それだけなら、お前が人間界に残る意味はないだろう。
ライセに逢いたくはないか?」
「!」
妖艶に誘うようなカミュの言葉に、唯香の心臓が跳ねた。
累世という存在を忘れた唯香にとっては、今は、精の黒瞑界にいるライセのみが、彼女の息子に当たるのだ。
…つまり唯香の記憶の中では、自分の手元には子供がおらず、父親であるカミュの元でのみ、ライセという子がひとりだけ存在していることになっているのだ。
そして、そのライセに関する記憶は、いじられてはいない。
ましてや17年前に引き離されてから、今まで、ただの一度たりとも逢ったことのない息子だ。
否、逢うどころか、姿を見ることも、声を聞くことすらも…
それすらも、今まで叶わなかったのだ。
…そんなライセに、父親であるカミュは、会わせてくれるような口振りを示している…!
その結果。自然、唯香の声が上擦った。
「!あ…、逢いたい! …ライセに…、ライセに逢いたい…!」
「そうか。ならばお前が取らねばならない道も分かるな?」
「!せ…、精の黒瞑界に行けばいいのね!?」
「…賢明だな」
カミュが乾いた笑みを浮かべる。
彼の目論見通り、唯香は、あれほど気にかけていた愛息の存在を忘れ、しかも自ら、精の黒瞑界へ出向くと言い出した。
笑わずにはいられない。
人間の情とは、真に薄っぺらいものだ。
外からの、ほんのわずかな介入で失うような…
これ程までに脆く、儚いものなのだ。
互いに想いがあるから成り立つだけの希薄な情など、片方がそれを翻せば、所詮、無いものと同じだ。
…“下らない”。
「…、…ミュ、カミュ、どうしたの?」
唯香の呼びかけに、カミュは我に返ったように唯香に目を向けた。
「いや…」
「それならいいけど… あの…、すぐにライセに会わせてくれるの?」
「…お前がそう望むならな」
唯香の期待に満ちた反応を確信し、カミュは空間転移を行うべく、その体に、紫の魔力を集中させた。
瞬間、カミュの身体から、美しい紫の光が放たれる。
唯香はそれに見とれそうになって、慌てて自らの理性を捕まえた。
…徐に、カミュが唯香の手を取る。
「準備はいいか?」
「え? あ、うん…」
唯香が頷くとほぼ同時に、カミュは転移の魔力を発動させた。
二人の姿が眩い紫の光に覆われ、その場から消える。
…唯香の網膜に移った、見慣れたはずの神崎家が、次には見慣れぬ黒の空間に覆われたのを、当の唯香が認識した、その刹那…
「…着いたぞ」
カミュが当然のように告げ、繋いでいた手を離した。
それに、唯香は驚いたように周りを見渡す。
17年前に見たものと、全く同じ光景がそこにはあった。
…この空間には覚えがある。
否、忘れるはずもない…
ここは、カミュの私室とも呼べる…例の、あの空間だ。
自分がここで何をされたのかは、17年という年月が経った今でも、鮮明に覚えている。
当時の記憶が…鮮やかに甦る。
自然、それを認識した唯香の体が震えた。
「…どうした?」
その原因をはっきりと知りながらも、カミュは問うていた。
…そう、捕らえていた。
辱めていた。
そして、拘束していた…
…“この空間で”。
怯えるのも無理はない。
「!…か…、カミュ…、ここは…」
「居心地が悪いか?」
「……」
唯香は青ざめた顔で、黙ったまま静かに頷いた。
すると、何の前触れもなく、唐突にその空間の入り口が歪んだ。
何かに気付いたカミュがそちらに目をやると、その入り口から、累世に瓜二つの少年…
ライセ=ブラインが姿を見せた。
「…父上、随分とお早いご帰還ですが、あちらの世界で何か… !?」
父親に訊ねていたライセは、その父親の隣にいる唯香と目があった途端、唯香の姿に釘付けになった。
「!…ま…、まさか…、まさかあなたは… …は…、母上っ…!?」
「!…母上って… じ…、じゃあ…あなたはまさか…ライセ!?」
「はい…!」
驚きながらも、嬉しさのあまり笑んだライセに、唯香は、先程までの顔色が嘘のように快活に…
反射的に、ライセに飛びついていた。
「ライセ、ライセ…っ! 大きくなったね…! 逢いたかった…!」
「母上っ…!」
ライセは、自らの体にも収まるであろう華奢な母親を、自らの想いの全てを込めて、強く…切なく抱きしめた。
…望んでいたそのままの温もりが、そこにはあった。
「母上…、俺も…
…俺もずっと、母上に…逢いたかった…!」
「!うん、ライセ、あたしも…!
でもびっくりしたぁ…、ライセってば本当に… “……”にそっくり!」
「…なに?」
この唯香の言葉を聞き咎めたカミュが、鋭い視線で唯香を見る。
ライセも、名前こそ出なかったものの、弟である累世と比べられたことを察し、一転して不機嫌な表情になった。
そんな二人の様子を見た唯香は、思わず自らの口を押さえた。
「!え…、あ、あたし今…何を?」
そんな戸惑った様子の唯香に、カミュは心中で呻いた。
(…、忘れさせたつもりだったが…
やはり、思慕が強いと完全にはいかないか…!)
…その情は抑えなくてはならない。
ライセの為にも。
忘れさせなければならない。
他ならぬ自分が、それを望んでいるから…!
だが、まだ早い。
これ以上の強い魔力を用いるには、まだ少し早いのだ。
そう…、それまでは、“忘れているように仕向けるしかない”。
「何も言ってはいない。…息子であるライセを、何者とも比べるな…!」
そう冷酷に言い捨てて、カミュは人知れず、累世の存在を抹殺した…
→TO BE CONTINUED…
NEXT:†白夜の渦†
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