欲するものは

「…ああ。単に、体内の鉄分が極端に不足しているだけだ…」


彼は、どこか諦めたように、冷めた口調でそう呟く。

反して、間接的にとはいえ、彼を蝕んでいる原因を知った私の気持ちは、それなりに複雑なものだった。


「鉄分不足って…どうすれば治るの?」

「……」


何故か彼は、身体の異常そのものを抑えるかのように、鈍く歯を軋ませた。

その仕草が何となく、彼は自らの身体を治す方法を知っているのではないかと思わせる。

…そうこうしている間にも、彼の顔色は青を通り越して白くなり、体温は更に低下の一途を辿っている。


ここでこうしていても埒があかないので、私はとりあえず、カマをかけてみることにした。


「…で、私は一体どうすればいい?」

「別に…何もしなくていい。…お前が出来るようなことは、何もない」


彼はすぐさま、それを見越したかのように返答してきた。


…だが、という事はだ。


「その口振りだと、貴方…、その症状を治す為にはどうすればいいか、本当は知ってるんじゃないの?」

「……」


私の問いに、彼は無言で視線を逸らした。

その様子を見て、私は先程からの自分の考えに、更に確信を持つ。


「もし貴方が本当に、その症状の原因や治療法を知らないのであれば、それを少しでも緩和するために、どんな些細な事でも、必ず何かはあたしに頼んでるはずよね?」

「…!」


途端に彼は、ほんの一瞬ではあるが、確かに体の動きを止めた。

しかし、すぐにそれを潜めて呟く。


「…治すためには、何が必要なのかは分かっている。だが、それは…」

「分かってるんなら、別に遠慮しなくてもいいじゃない。…何が足りないの? 鉄分のサプリメント? 鉄分を含んだ飲料?

それとも、病院から出されている薬とか?」


私は、緊迫した空気を和らげるために、わざと冗談混じりに言ったつもり…だったのだが、彼がいつになく真剣な面持ちなのを見て、次にはそれを抑えた。


…すると、彼は不意に、それこそ前置きもなく、低く告げた。


「…そんなものでは、到底効きはしない。俺に本当に必要なのは…

のままの“鮮血”だけだ…!」


彼の、さも当然といった呟きは、その表情に比例するかのように、真実味を帯びている。

それに対して、私は思い切り眉を顰めた。


「…“鮮血”…?」


…始めは、何の冗談なのかと思った。


だが、冗談にしては、このような状態の時に質が悪すぎるし、何よりも、彼の表情は真剣そのものだ。

それに、もしそれが真実なら、知っていても言わなかった事にも合点がいく…のだが。


“だが”、しかし。


「鮮血って…、何でそんなもの…?」


呆れたように疑問を露にする私に、彼は憮然として目を伏せた。

そのまま、またも黙りこくる彼に、私は何も知らずに、二の句を告げた。


「血を欲しがるなんて…そんな、吸血鬼ヴァンパイアじゃあるまいし…」

「!…吸血…鬼…?」


瞬間、どくん、と、彼の心臓が跳ねた気がした。

その鼓動は、徐々に早くなっているようで…

今度は、彼は強く左胸を掻きむしるように押さえた。


「…っ…!」


もはや、呻く事すらも叶わず、脂汗はより冷たい汗に変わり、徐々に酷くなる一方のその症状に、必死で耐えている。

顔色といい体温といい、もはや常人のそれとは確実に違う。明らかに、何らかの発作にも近い異常さだ。

…さすがにその状態を本能で見かねたのか、私は我知らず、大声で叫んでいた。


「!分かった、冗談でも本気でも、それで本当に貴方の体が治るんなら…、貴方に、あたしの血をあげる!」

「!?…」


耐えるため、目すらも硬く閉じていた苦しみの下から、彼はうっすらと目を開け、意外そうに私を見た。


「…だ、大丈夫。蚊に食われた…、あ、いや、献血でもしたと思えば…」

「…、いいのか…」


ぼそりと、彼が呟く。


「本当に…」


…その紫の瞳には、何かを求めて、狂おしいまでの欲望が浮かんでいる。


「!…」


その瞳の妖艶さに、私は思わず息を呑んだが、我に返ると、静かに頷いた。


「…うん」

「そうか…」


彼は呟くと、不意に私の体を引き寄せた。


「えっ…!?」


確実に弱ってきているはずなのに、その力は、先程までのものと大差ない。

私がそれに驚いていると、彼はそのまま、私の首筋に顔を埋めた。


…その箇所に、僅かに、ちくりとした鈍い痛みが走る。

それは、つい先程、彼に唇を奪われた時と同じ痛みだ。


すると、その部位が、まるで麻痺したかのように、熱を帯びてきた。

…だが、その熱には、不快感などは全くなく、むしろそこだけが…今の私の体の中で唯一、疼くような快感を覚えていた。



……、

どれくらいの時が経っただろう。



私は、この快感にすっかり骨抜きにされていた。

快楽のあまり、ぼんやりとなった目で、前方の風景を窺う。


…すると、彼の唇が、そっと私の首筋から離れた。


先程まで与えられていた快楽を失ったそこは、今は、ちくりとした痛みを覚えた時に出来た傷だけが、言いようのない熱さを感じている。


「…大丈夫か?」


彼が、私の顔を覗くようにして問いかけてくる。

その顔には血色が戻り、紫の瞳は僅かに潤んでいて、例えようもない色気を湛えている。


「…ん…、大丈夫…」


体調を省みてというよりは、むしろ彼の優しい言葉に頷かされて、私は答えていた。


「…そうか」


彼は安堵したように軽く息をつくと、そのまま立ち上がった。

その様子は、先程までのあれだけの症状が、まるで嘘のように軽快だ。


それに心底安心して、私も立ち上がろうとするが…

足に力が入らない。

いったんは立ち上がったものの、すぐに立ち眩みを起こして、膝をついてしまった。


「!な、何で…?」

「だから言っただろう、大丈夫かと」


彼が、頭上から声を響かせてくる。

この図式は、完全に先程までとは逆だ。


…しかし。


(何でいきなり貧血に…、さっきまでは何ともなかったのに…!?)


ふと、そんな疑問が胸に湧いた。

確かに、ついさっきまでは、貧血を起こしていたのは彼の方だ。

そして、彼が言う、『鮮血』を与えたらしい行為で、逆にこちらが貧血になるとは…!


そこまで考えて、私は背中に氷が滑り落ちるような感覚を覚えた。


(…まさか…、この人、本当に吸血鬼…!?)


「…俺が怖いか?」


そんな私の心情を見越したかのように、唐突に彼が尋ねて来た。

それに私の心臓は、どきりと跳ねる。

そんな私の有様を見て、彼は寂しげな笑みを浮かべた。


「…俺が何故、血を求めるのかは分からない。だが、血さえ得る事が出来れば、あの症状が治るであろう事だけは、漠然とだが予測できた…」

「……」


なんと返事したらよいか分からず、私が黙り込んでいると、彼はその笑みを抑え、瞳を閉じた。


「…俺が…恐ろしいのだろう?」

「…、そんなことは…」


私の、精一杯ついた嘘を聞いて、彼は静かに瞳を開いた。


「気を使わなくていい。…だが…」


彼は、そっと私の側に近づき、私に合わせるように体を落とすと、労るように声をかけた。


「お前が俺を拒んでいても、俺はお前に感謝している」



…“見ず知らずの俺に、血液を与えてくれたことをな”…



貧血で頭がくらくらしているので、はっきりとは分からなかったが、彼の言葉の最後の方の呟きは、このように聞こえた。

そして、


「その症状はすぐに良くなる。…少し休んでいれば治るだろう」


そう言い捨てて、彼は立ち上がり、私に背を向けた。

それに気付いた私は、彼に必死に呼びかける。


「!ま…、待って!」


それに、彼は僅かに振り向き、紫の双眸だけを私に向けた。

そんな彼が、このまま何処かに行ってしまいそうな気がして、私は彼の言葉を待たずに、再び話しかけた。


「すぐ治るって言っても、あたしはまだ貧血状態だし、貴方だって、まだ体調が完全には戻ってないんじゃないの…!?」

「…、何が言いたいんだ?」


彼は、相変わらず視線だけを向けて尋ねてくる。

その瞳は、まるで射抜くように鋭くなっている。

その、彼の雰囲気に負けじと、私は声をあげた。


「…これから…何処に行くの?」

「…何故、そんな事を気にする」

「だって…、体の調子が悪いんだから、少し休めばいいのにって思って…」


私のこの言葉に、彼は私の方に向き直った。


「俺の体調は見ての通りだ。お前が何ら気に病む事はない。…それよりも今は、自分の体調の方を気にするべきだろう…

俺に血を分け与えたのだからな」


彼は、はっきりとそう告げた。

彼の言うことは確かに正論だ。正しいのだが…


「そう思うなら、せめて家まで送って行ってくれない?」

「…何だと?」


彼は、訝しげに私を見下ろした。


「少し治れば休むって言っても、このままじゃ、まだ帰れないし…、何より、こんな辺鄙な場所に置いて行かれても困るのよね」

「……」


彼は、しばらく考えていたようだったが、やがて頷いた。


「…いいだろう。お前の貧血の原因は、俺でもあるからな」


呟くと、彼は私が持っていたバッグを肩にかけ、私の体を支えるようにして立たせた。

途端に、言いようのない目眩が襲ってくる。

それによってふらついた私を、彼はしっかりと支えた。

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