第2話
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さて、「摩訶般若波羅蜜多心経」の最大のキーワードは、一番最後の「ギャテイ(ワードに文字がありませんので、片仮名でかきます。ここは、真言であり、陀羅尼(ダラニ)ですから、元々、音写ですので、漢字に意味はありません)偈(げ)」から、お話をしていきましょう。
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボージー、ソワカ」
最後に、「般若心経」とお唱えしますが、オリジナルにはなく、後から足された、一句であるという説があります。
これを梵語での述べますと、
「ガテイ、ガテイ、パーラーガテイ、パーラサンガテイ、ボウディ、ソワカ」
となります。
これを訳しますと、
「渡った(逝った)、渡った(逝った)、みんな渡った(逝った)、一人残らず渡った(逝った)、これは、まことに、めでたし」
これは、仏教の一大側面である、タナトロジーの、大団円を呪(しゅ)、呪というのは、呪いと書きますが、仏教では「呪い」と書いて、呪(しゅ)と読みます。
真言(マントラ)のことのです。
その真言に込めた、仏の大慈悲であろうと思います。
人生の二大主題は、他でもありません。
「誕生」と「死」なのです。
「死」んで、その後、嫌なところにいくのは、誰でも、恐ろしいことでしょう。
「そんなところに、逝きたくない」
その思いが、実に単純な、
「死んだらどうなるの?」
という、人間の、最大の疑問になるわけであります。
さて、もう一つの一大主題の「誕生」でありますが、これは、タナトロジーと、真っ向から対峙する、セクソロジーであろうと思います。
このことは、すでに「心毒の海を渡る」に述べています。
あるいは、私の著作である『人が死なない理由』(国書刊行会)で出版されている本を読んでください。
実は、誕生してくる人口の数と同じように、死んでいく数も多いのです。
死んでいく人たちが、ズラリと、並んで、順番待ちをしているのです。
それは、大きな病院にいけば、すぐに、判明するはずです。
死んでいく人たちには、健康な人たちが持っている、生命力の横溢感がないのです。
「死に、救いを、求めるように、なります」
人は、病気や、怪我や、事故や、その他のことで死ぬのではないのです。
その人の、生命力が尽きることで、死ぬのです。
死んでいく人には、独特の負のオーラが出ているのです。
生き抜く人は、生に対して、貪欲です。
寺に、長いこと雑用をしてくれていた、おじさんがいました。
今は故人になっていますが、死ぬ一週間まで、寺で仕事していましたが、ある日、帰り際に、
「先生。俺は、もう、ダメだ。これで、やめる。体が持たなくなった。長いこと、面倒みてくれて、ありがとうございました」
と、帰って行ったのです。
山形の出身の、おじさんでした。
突然のことだったので、言われた私の方が、呆気にとらせてしましました。
そして、一週間後に、逝ったとの知らせがありました。
その、おじさんは、満州で歩兵をやっていて、敵が来るのを塹壕の中で、待っていたそうですが、あるとき、何でもない奴が、突然、
「ああ・・・俺は、死ぬ!」
と、狂ったように、いいつのり出すのだそうです。
すると、不思議に、その人物に、敵の弾丸が、命中してしまうのだそうです。
死のオーラに取憑かれてしまうのでしょう。
人間、最後は、医師の腕でも、薬の力でもないのです。
本人の、
「何が何でも、生きるのだ!」
と言う、力なのだと思います。
生命力こそが、人を生かしてゆくのだと思います。
この時に、仏は、どこにいるのでしょう?
天上でしょうか?
地の下でしょうか?
一体、釈迦牟尼仏とは、誰なのでしょうか?
観世音菩薩とは、誰なのでしょうか?
絶対に、ここを、ゆるがせに、考えてはならないのです。
信心を、心の杖に、生きてゆくのは、大賛成です。
しかし、最後の一瞬だけは、杖を離して、自分自身の力で、この大地に、屹立して下さい。
そして、「ギャテイ偈」にあるように、自信を持って、渡るのです。
それが、仏さまが、心の底から、念じておられることなのです。
それが、「摩訶般若波羅蜜多心経」の神髄なのです。
これには、本当に、貴重な、エピソードがあります。
私の、友人の僧侶が、おりまして、彼は、鎌倉の円覚寺の、宗務総長をしていた人物ですが、残念なことに、末期癌になって、げっそりと痩せてしまい、ある種のことを、想像させるのにたる、体型になってしまいました。
その、彼に、逝く三日前に、呼ばれたのです。
なにごとだろう? と思いました。
「我々の仲間で、本を書くのは、牛さんだけだ。で、これは、『業(ごう)』だから、牛さんは、また、いつか、『心経』を書くだろう。だから、言っておく。『心経』は、『ギャテイ偈』のために、書かれたものだ。その前は、お題目に過ぎない。俺は、もうじき逝く。坊主だ。だから、見える。『心経』がな。次に書くときは、忘れるな。『ギャテイ偈』だぞ。頼む。それで、多くの人が救われる。頼んだぞ。呼んだのは、それだけだ」
帰路、涙で、運転が出来なくなって、自動車を道端に寄せました。
その、「摩訶般若波羅蜜多心経」を、今、書いているのです。
渠(かれ)の言う、多くの人が、救いを求めて、雲霞の如く、行列をなしている。
今、その、彼岸は遠くにある。
だが、必ず、その順番は、幸福とともに来るのです。
そして「ボウディ・ソワカ」(みんな渡った、めでたし)となるわけです。
仏は、誰だ?
考えてみてください。
己の腹の底を、指さしてみてください。
居るでしょう。
見事な仏が。
それを、釈迦牟尼仏というのです。
だから、みんな安心をして、渡れるわけです。
渡れば、そこは、中有の世界です。
平等性智の世界です。
平等性智とは、全てのものを、あまねく平等に見る、智慧の世界なのです。
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