般若心経の真実
牛次郎
第1話
相変わらず、「流れ、流されている」心の奥底にある、毒によって、体のほうが、思うように動かないのである。この毒はいつになったら、私の体から、離れていくのかな?
私自身にも、まるで、見当が、つきません。
「摩訶般若波羅蜜多心経」と、遊ぶというか、「心経」を、自分を見る「鏡」として、一字一句の中に、私自身を投影していこう。
そう思って、筆を進めていく積もりになっているのです。
お寺に、おいでになる、みなさんと、お話をしておりますと、
「仏さまのことを、知りたい」
「仏教をしりたい。それも、和尚さんの、やさしい語り口で、教えて、いただきたい」
「私、般若心経の、写経を、しているんです。だから、心経のこと、知りたくなって」
という、リクエストが、多いのです。
「心経の本は、沢山、売っているよ」
と、答えるのですが、
「ダメです。難しくって」
と言われてしまうのです。
そこで、一大発心をして、以前にも、何度もかいて、出版もしているのですが、すでに
「和尚さんの本は、売ってませんよ」
と言われてしまいました。
「そういえば、大分以前に出版された本だからなあ」
ということと、重なって、
「八十歳になってからの、心経も、面白いかもしれないな」
と思うようになったのである。
それが、モチベーションになったのが、本稿なのです。
自然の成り行きですから、逆らっても仕方がありません。
と、いうことで、よろしく、ご愛読を、お願いいたします。
副題
「摩訶般若波羅蜜多心経」を、自分の鏡にしてみよう。
第一章
1
経典の解説というのは、お作法として、まず、題目(タイトル)を解説してゆくのが、ごく普通のことなのです。
私も、それに倣って、題目から、お話を進めてまいりましょう
「摩訶般若波羅蜜多心経」は、梵(ぼん)と通常は、言いますが、インドのことです。
そのインドで、つくられた、経典なのです。
「マハー・プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ・スートラ」
というのが、原題です。別に、傍らに参考書を、置いてある訳ではないので、いつも思っていることを、ゆっくりと、話させて、貰います。
マハーは、漢の国、何代か前の、中国のことですね。
そこで、音写されて、「摩訶(マカ)」と発音されるようになったのです。
経典にとって、経典の意味とは、まったく関係のない、しかし、大切な要素が、二つあります。
「習慣」と「読み癖」です。
それと、「音写」と言うことです。
両親のことを呼ぶとき、「お父さん」「お母さん」というのが、日本語としては、正しい呼び方なのでしょうが、「パパ」「ママ」という、呼び方をする、ご家庭がありますね。
決して間違いではありませんが、「呼び癖」ということになるでしょう。
経典でも、同じことなのです。
「マハー」の発音が、中国に入って、「マカ」という呼び方になったのです。
そして「摩訶」という文字が、当てられたということなのです。
ですから、「摩訶」の文字には、なんの意味もありません。間価(マカ)でも、良いのですが、先きにのべた「習慣」と、訳者の漢字に対するセンスで、摩訶を選択したということで、それに従っている訳なのです。でもマカを「摩訶」にしたのは、綺麗な、センスですよね。それで「摩訶」を使用するように、なったのです。訳者に敬意を表したいたいと思います。
経典には、こうした、「音写」の文字が、沢山入っています。
けれども、中には、「意訳」も混じっているのです。
そこが、なんとも、紛らわしい限りです。
例えば、「心経」の、「心」という文字は「意訳」になります。
「フリダヤ」ですが、直訳すると、「心臓」という意味なのです。
それを、「心(ハート)」いう、重要な意味に訳しているのです。
ここを、音写してしまうと、とんでもないことに、なっていまいます。「スートラ」は「経」といういみです。本来は「縦糸(たていと)」と言う意味です。地球も「経度」「緯度」といいますね。「東経」というと、縦の位置ですね。昔は紙がなかったので、木簡とか、竹簡にかいたのです。それを、「経(たていと)」で綴じたのです。そこから、「お経」となったのですよ。それが「スートラ」です。
次にいきます。「プラジュニャ-」ですが、「パーニャー」とも、発音します。
インドは広いです。
人口も、十三億人もある国です。
従って、言語も沢山あります。
パーリー語や、ヒンドゥー語、その他いろいろです。
お釈迦さまは、インドの北の方で誕生いたしました。
ヒマラヤの麓の方に、釈迦族の国があったのです。
その釈迦族の国の、王子さまとして、誕生したのです。
「シッダールタ」というのが、王子さまのときの、お名前です。
「悉達多皇子」と書きますが、意味は、悉く多くのことを達成するという、お名前でした。
そして、長じて、釈迦と呼ばれ、成道(じょうどう)されて、仏陀となられたのです。
そういう次第で、「プラジュニャー」とか、「パーニャー」と呼ばれるのですか、意味はおなじです。
それが、例によって、音写されて「般若」となったのです。
意味は「知恵」です。「智慧」とかくのが、本当でしょう。何で般若の面は、あんなに恐いのですかね。理由は知りませんが、京都の般若寺の、面打ち師が、あの恐い形に打ったのが、初めてで、以降、般若の面というと、あれに成ってしまったのですが、経典とは、なんの関係もありません。
次です。「波羅蜜多(はらみた)」は、「パーラミター」の音写です。
「般若」も、「波羅蜜多」も、文字に、深い意味は、ありません。
漢字を追ってはダメです。
「波羅蜜多」は、渡るという意味です。
どこに、渡るのでしょうね。
次と、その次は、意訳ですので、文字に意味があります。
「フリダヤ」と「スートラ」は、「フリダヤ」は「心」という意味でしたね。
「スートラ」は「経」いう意味です。
こうして、話して行くと、これと言った、難しいことは、なにもありませんよね。
これが「摩訶般若波羅蜜多心経」の意味です。
全通で訳して見ますと、
「他に比較しようもない大きな(摩訶の意味です)、智慧で、彼岸に渡らせ頂く、大切な経典」
と言うことになります。
ここで、気になるのが、「彼岸」です。
こちらの岸は、此岸(しがん)です。
向こう側の岸が、彼岸(ひがん)です。
「彼岸に渡るのです」。
彼岸て、なんですか?
彼岸は、悟りの岸という、無難な言い方をしているようですが、ズバリ言いましょう。
死んじゃった人が、渡っていく岸です。
死んじゃったんですから、悟りの岸ですよね。
全通の意味を、現実に即して、勝手に直しちゃいましょう。
その方が、納得しますから。
「偉大な、仏のお智慧で、死(無余涅槃)を、最大の悟りとして、きよらかな岸に、渡らせて頂く大切な経典」
納得して頂けましたか。
「納得こそ、その段階での、悟りそのものなのです」
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